近世・江戸時代
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江戸時代の裁判制度の訴訟はおおむね、吟味筋(刑事訴訟)と公事出入筋(民事訴訟)にわかれており、天領内・藩内であれば、その役所、またがる場合は評定所(寺社奉行、町奉行、勘定奉行)がとりしきった。 江戸の町奉行は、行政・司法・警察を担い、現代でいえば、都知事・地方裁判所長官・警視総監を兼任していることに当たる(後述書 p.102)。町奉行という役職が置かれたのは慶長6年(1601年)だが、町奉行所と呼ばれる役所が整備されたのは寛永8年(1631年)であり(後述書 p.102)、この時点では南北に役所が置かれ、月番制で江戸市中の治安を守った(後述書 p.102)。元禄6年(1702年)、一時的に中町奉行所が置かれ、三奉行所体制となったが、享保4年(1719年)には廃止され、二奉行に戻る(後述書 p.102)。北町奉行所の面積は2560坪、南町奉行所の面積は2626坪だった(「歴史ミステリー」倶楽部 『図解!江戸時代』 三笠書房 2015年 p.103)。長屋の喧嘩レベルの仲裁は町役人の月行事(がちぎょうじ)が行った(前同 p.104)。 江戸幕府の基本法典は8代将軍徳川吉宗の治世、寛保2年(1742年)に『公事方御定書』(御定書百箇条とも)が定められたが、その内容は一般には公開されず(『図解!江戸時代』 p.118)、寺社奉行・町奉行・勘定奉行が知るのみで(前同 p.118)、罪人は裁決が下るまで、どの刑罰を処せられるか分からなかった(『図解!江戸時代』 p.118)。 近世期の法諺として、非理法権天があり、社会概念としては、法律は権威や天道には劣るという(法より権威を上とする)認識がみられる。自分仕置令(仕置=処罰)によって、各藩にも、ある程度、刑罰を定める権利があったが、米沢藩の場合、刑法典を制定せず、 判例の方を重視した(詳細は「米沢藩#藩法」を参照)。代官には当初裁判権は無かったが、寛政6年(1794年)になり、博奕などの軽犯罪に対してのみ敲刑といった手切仕置権の権限が与えられた(西沢敦男 『代官の日常生活 江戸の中間管理職』 角川ソフィア文庫 2015年 p.24)。 出入筋としては、村同士の境界の争い(村境争議)、入会(いりあい)権などの用益物権に関する争い(入会争議)、農業用水をめぐる争い(用水争議)、鷹場の負担に関する争い(鷹場争議)、交通負担に関する争い(助郷(すけごう)争議)など多彩な訴えがあった。とくに、村の境界は河川を基本としており、洪水などによる川欠け(流形がかわる)をきっかけに訴えが頻繁に起こされてきた。訴状は目安、調書は口書(くちがき)、判決は裁許(さいきょ)、または落着と呼ばれ、判決にあたっては原告と被告とに裁許状が交付された。上訴制度は無かった。また地方から出てきた人を宿泊させる「公事宿」もあった。また、民事訴訟などの手続を当事者の代わりに行う「公事師」もいた。和解は、内済と呼んだ(『代官の日常生活』 p.25)。 公事出入の吟味に関しては6ヵ月を超えないようにし、これを超える場合、趣意書を届け出るように規定されていた(『代官の日常生活』 p.25)。 幕末では欧米列強国の進出によって、不平等条約が締結され、明治近代期の条約改正に至るまで、領事裁判権により白人を初めとする西洋人犯罪に対する裁判権が認められなかった(『詳説日本史図録』 山川出版社第5版 2011年(1版08年) p.195.p.223)。近代期に日本も朝鮮に対し、不平等条約を行うことになる。一方で、琉球とアメリカの間で締結された琉米修好条約では、アメリカ人による犯罪に対して逮捕権が認められていた点が日本本土と異なる。 蝦夷地(現北海道)に関しては、幕府が東蝦夷地取り上げにともない、1802年に「蝦夷奉行」を設置し、後に「函館奉行」と改称(後述書 p.148)。一端、松前藩に蝦夷地が返還された1821 - 1854年には廃されたが、日露和親条約締結で、1855年に再設置し、1868年、明治政府の「箱館裁判所」に引き継がれた(全国歴史教育研究協議会編 『日本史Ⓑ用語集』 山川出版社 16刷1998年(1刷1995年) p.148)。
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