近世・桃山時代
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天正13年(1585年)7月11日、武家関白に任ぜられた豊臣秀吉(厳密には、この後に豊臣姓となる)は、政所の家政処理機関として奉行制度、すなわち文治派の大名から成る五奉行を組織するが、司法を担当したのは浅野長政であった(後述書 pp.206 - 207)。五奉行はあくまで中央政府としての任務を全うする官僚集団を集めた組織を確立するまでの過渡期の形態であり(後述書)、軍人本位(武断派)の人選ではなく、損益に明るく、算数の能力が正確で、裁判などの民事事件処理なども生活常識に即してかけ離れていないことが求められて抜擢されており、中央政府の機能が意識されている(鈴木旭 『面白いほどよくわかる 戦国史』 日本文芸社 2004年 p.206)。続いて関白となった豊臣秀次だが、豊臣秀頼の誕生もあって、執行機関は与えられず、太閤秀吉の決定=太閤法度を追認する機能しか与えられなかった(鈴木旭 『面白いほどよくわかる 戦国史』 p.239)。秀吉没後、徳川家康は太閤法度を守らなくなり(鈴木旭 『面白いほどよくわかる 戦国史』 p.241)、実質的に中央政権的機能は崩れ去る。 桃山時代では大年寄(大老とも)が庶政の裁判を行う職として設置されたものの、秀吉が亡くなる前年の慶長2年(1597年)に設置されたため(川口謙二 池田孝 池田正弘 『東京美術選書33 江戸時代奉行職事典』 東京美術 1983年 p.13)、裁判機構としての歴史は浅い。
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