象、江戸へ
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象見学を終えた御所では浄めのために掃除がなされた。こののち、象は4月29日に清浄華院を出発し、近江国草津宿までは東海道を、草津からは中山道に、さらに垂井宿からは美濃路に入り、名古屋へ向かった。渡海を避けるため、内陸のルートが選ばれたと考えられる。濃尾国境の墨俣では船橋をつくって象を渡河をさせることも検討されたが、船橋を急造することは不可能であり、また、河原のなかに象小屋を建てることも断念され、結局船で渡ることとしたが、象が乗船に後ずさりして20名ほどの人間が引っ張られて難儀をしたことが記録に残っている。象は、清州には5月4日、名古屋には5月5日に到着し、尾張藩主徳川継友が城下まで赴いて見物し、ほとんどすべての家臣も象見物をしたと記録されている。 名古屋からは吉田藩領を経て三河国岡崎からは再び東海道を東に進み、駿河国では大井川を徒歩で渡った。大井川では川の激しい流れを弱めるため、人足たちが肩を組み、象の渡る上流に幾重にも並んだ。富士川の渡河には、川に船を横一列に並べて繋ぎ、その上に板を渡して臨時の橋をつくる、いわゆる「船橋」の設営が採用された。係留杭10本、船に敷く松材の板75枚が準備され、柱打ち込みのための穴掘りや麻網の打ち立て、川中への竿入れなど、合計1,900人の人足が動員された。5月17日、箱根の峠を越えるとき、象は茨ヶ平で立ち止まってしまい、4人が押しても動かず、口から泡を出して苦しそうな気配を示した。気付け薬を飲ませて途中で何度も休ませながら、だましだまし峠を越え、上りよりも苦手な急な下り坂を歩いて箱根宿に着いたが、倒れこんでしまった。象は5月20日まで計4泊を病気療養のため箱根ですごした。その間、箱根では野犬狩りがおこなわれた。また、なかなか放屁しない象の腹を、象使いたちは丸太を用いて懸命にマッサージして放屁をうながしている。5月25日の六郷川(現、多摩川)の渡河は、貞享5年(1688年)の大洪水で橋が流失して以降、橋が建設されなかったので、船橋での渡河となった。船橋をつくったのは、長い旅程のうち富士川と六郷川だけであった。船橋は象の通行後は解体撤去された。六郷川では7日間でのべ805人の人足を要したと記録されている。 象は、道中各地でブームを巻き起こし、象にまつわるさまざまな書籍や瓦版、版画、双六などが現れ、江戸に着いてからも、象をモチーフとする置物や刀剣、刀の鍔、印籠などの商品がつくられて人気を呼んだ。 江戸への到着は享保14年5月25日のことであった。それに先立って江戸でも触が出され、くれぐれも不作法のないよう、また象に菓子などを投げ与えることは固く禁ずることが申しわたされた。象は、到着にあたって江戸市民の熱狂的な歓迎を受け、市中往来を練り歩いたのち江戸城外の浜御殿に収容された。浜御殿(現、浜離宮恩賜庭園)は、もともとは徳川将軍家の鷹狩の場であったが、そこに甲府宰相松平綱重の別邸が建てられ、甲府藩主の徳川綱豊が第6代将軍徳川家宣として江戸城に入ったのち、これを改めて御殿としたものである。 享保14年5月27日(西暦1729年6月23日)、将軍吉宗は象を江戸城に召し、大広間の前庭で嫡男家重(のちの第9代将軍徳川家重)らとともに桜田門から入城した象と対面した。吉宗と象との対面のようすは『徳川実紀』中の『有徳院殿御実紀』に記載されている。享保十四年五月廿五日条に「大広間にいでたまひ、象を御覧あり。布衣以上の諸有司みなみることをゆるされたり。…(中略)…去年六月鄭大成といへる唐商が、広南より象の牡牝…江戸にひきまいらす」との記録がある。「布衣以上」、すなわち位階にして六位相当以上の有司が見物を差し許されたことになる。このときの見物は、老中以下の幕閣だけではなく大奥の女性たちに対しても許された。なお、吉宗はこののち、象にイノシシやイヌを立ち向かわせて、どちらが強いか喧嘩させたりしている。 ベトナム人の象使いが長崎から江戸までの旅に同行し、江戸にはおよそ1か月間滞在して、そのあいだ日本人(「長崎者」)が象使いから通訳を通じて飼育指導を受けたと記録されている。その後、「広南従四位白象」は浜御殿で飼育された。浜御殿が選ばれたのは、吉宗がこの御殿を従来のような遊興の場所ではなく、製糖・製塩、鍛冶、火術・大砲術、水質改善など実学実験場として活用することに決めた、その延長上にあった。将軍は何度か象のもとを訪れ、象使いが象に乗るようすを観察したり、みずから象にエサを与えたという伝承がのこっている。 6月16日には駒込の水戸藩江戸藩邸中屋敷で養仙院が、同日上野の寛永寺で門跡が象を見物し、6月26日には小石川の水戸藩江戸藩邸上屋敷で象見物がおこなわれた。水戸藩は詳細な象情報を残しており、それによれば「毛はねずみ色で見栄えは余りよろしくない」「鼻が長く自由が効く」「ことのほか人になつく動物であり、何事もよく理解する」「江戸城にても中国語で人を乗せると申したら、言葉を理解して下に居る人を乗せた」などといった記録がある。 しかし、飼育費が年間200両もかかるなどの経済的な負担もあって、享保15年6月30日(西暦1730年8月13日)には早くも象払下げの触が出された。
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