象、江戸へとは? わかりやすく解説

象、江戸へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 03:03 UTC 版)

広南従四位白象」の記事における「象、江戸へ」の解説

見学終えた御所では浄めのために掃除なされたこののち、象は4月29日清浄華院出発し近江国草津宿までは東海道を、草津からは中山道に、さらに垂井宿からは美濃路入り名古屋向かった渡海避けるため、内陸ルート選ばれたと考えられる濃尾国境墨俣では船橋つくって象を渡河をさせることも検討されたが、船橋急造することは不可能であり、また、河原のなかに象小屋建てることも断念され、結局船で渡ることとしたが、象が乗船後ずさりして20名ほどの人間引っ張られ難儀したことが記録残っている。象は、清州には5月4日名古屋には5月5日到着し尾張藩主徳川継友城下まで赴いて見物し、ほとんどすべての家臣も象見物をしたと記録されている。 名古屋からは吉田藩領経て三河国岡崎からは再び東海道を東に進み駿河国では大井川徒歩渡った大井川では川の激し流れ弱めるため、人足たちが肩を組み、象の渡る上流幾重にも並んだ富士川渡河には、川に船を横一列並べて繋ぎその上に板を渡して臨時をつくる、いわゆる船橋」の設営採用された。係留10本、船に敷く松材の板75準備され打ち込みのための穴掘りや麻網の打ち立て川中への竿入れなど、合計1,900人の人足動員された。5月17日箱根峠を越えるとき、象はヶ平で立ち止まってしまい、4人が押して動かず、口から泡を出して苦しそうな気配示した気付け薬飲ませて途中で何度も休ませながら、だましだまし峠を越え上りよりも苦手な急な下り坂歩いて箱根宿着いたが、倒れこんでしまった。象は5月20日まで計4泊を病気療養のため箱根すごしたその間箱根では野犬狩りおこなわれたまた、なかなか放屁しない象の腹を、象使いたちは丸太用いて懸命にマッサージして放屁うながしている。5月25日六郷川(現、多摩川)の渡河は、貞享5年1688年)の大洪水流失し以降建設されなかったので、船橋での渡河となった船橋つくったのは、長い旅程のうち富士川六郷川だけであった船橋象の通行後は解体撤去された。六郷川では7日間でのべ805人の人足要した記録されている。 象は、道中各地ブーム巻き起こし、象にまつわるさまざまな書籍瓦版版画双六などが現れ江戸着いてからも、象をモチーフとする置物刀剣刀の鍔印籠などの商品つくられ人気呼んだ江戸へ到着享保14年5月25日のことであった。それに先立って江戸でも触が出されくれぐれも不作法ないよう、また象に菓子などを投げ与えることは固く禁ずることが申しわたされた。象は、到着にあたって江戸市民熱狂的な歓迎を受け、市中往来練り歩いたのち江戸城外の浜御殿収容された。浜御殿(現、浜離宮恩賜庭園)は、もともとは徳川将軍家鷹狩の場であったが、そこに甲府宰相松平綱重別邸建てられ甲府藩主の徳川綱豊が第6代将軍徳川家宣として江戸城入ったのち、これを改め御殿したものである。 享保14年5月27日西暦1729年6月23日)、将軍吉宗は象を江戸城召し大広間前庭嫡男家重(のちの第9代将軍徳川家重)らとともに桜田門から入城した象と対面した吉宗と象との対面のようすは『徳川実紀』中の『有徳院殿御実紀』に記載されている。享保十四五月廿五日条に「大広間にいでたまひ、象を御覧あり。布衣上の諸有司みなみることをゆるされたり。…(中略)…去年六月大成といへる唐商が、広南より象の牡牝…江戸ひきまいらす」との記録がある。「布衣以上」、すなわち位階にして六位相当以上の有司見物差し許されたことになる。このときの見物は、老中以下の幕閣だけではなく大奥女性たちに対して許された。なお、吉宗こののち、象にイノシシイヌを立ち向かわせて、どちらが強いか喧嘩させたりしている。 ベトナム人の象使い長崎から江戸までの旅に同行し江戸にはおよそ1か月滞在して、そのあいだ日本人(「長崎者」)が象使いから通訳通じて飼育指導受けた記録されている。その後、「広南従四位白象」は浜御殿飼育された。浜御殿選ばれたのは、吉宗がこの御殿従来のような遊興の場所ではなく製糖製塩鍛冶火術大砲術、水質改善など実学実験場として活用することに決めた、その延長にあった将軍何度か象のもとを訪れ、象使いが象に乗るようすを観察したり、みずから象にエサ与えたという伝承のこっている。 6月16日には駒込水戸藩江戸藩邸中屋敷養仙院が、同日上野寛永寺門跡が象を見物し6月26日には小石川水戸藩江戸藩邸上屋敷で象見物おこなわれた水戸藩詳細な情報残しており、それによれば「毛はねずみ色で見栄え余りよろしくない」「鼻が長く自由が効く」「ことのほか人になつく動物であり、何事もよく理解する」「江戸城にても中国語で人を乗せる申したら、言葉理解して下に居る人を乗せた」などといった記録がある。 しかし、飼育費が年間200両もかかるなどの経済的な負担もあって、享保15年6月30日西暦1730年8月13日)には早くも払下げの触が出された。

※この「象、江戸へ」の解説は、「広南従四位白象」の解説の一部です。
「象、江戸へ」を含む「広南従四位白象」の記事については、「広南従四位白象」の概要を参照ください。

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