象、日本の土を踏むとは? わかりやすく解説

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象、日本の土を踏む

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 03:03 UTC 版)

広南従四位白象」の記事における「象、日本の土を踏む」の解説

享保13年6月13日グレゴリウス暦:1728年7月19日)、清国商人鄭大威が広南国よりオス7歳メス5歳雌雄2頭の象に象使い通訳それぞれ2名を連れて長崎港到着した。鄭大威は当時貿易許可証である信牌を帯有していなかったともいわれ、珍獣持ちこんだために特別に入港許可されたという説がある。重い巨体の象を船から下ろすため、船と波止場のあいだには突堤築かれ長崎じゅうの人夫集められ慎重に陸揚げなされた上陸後は、市中を遠まわりして主だった町内巡回し長崎人びと見物させたうえで唐人屋敷入った。象使い1人49歳男性譚数(たんすう)、もう1人31歳女性漂綿(ひょうめん)でともに安南人(ベトナム人であった通訳はともに清国人で、福建省出身58歳の李陽明と広東省出身38歳陳阿であった。象の調教のことばも、当時人びとにとっては珍しいものであったようで、「居を、りやうちんりやうちん、喰を、まふそみまふそみ …」(『通航一覧』、原出典は『世説談海』)、「をくふ事 ロマン竹の葉をくふ事 アンチユ …」(近藤重蔵安南紀略』)などの「象語」も記録のこっている。清国人から提出された象に関する説明書詳細きわめたものであり、長崎大通事によって翻訳のうえ幕府報告された。2頭のうちメスの象は、この年9月11日長崎死亡してしまうが、オスの方は長崎越冬したメス象の死亡原因不明であり、日本の気候食べ物適応できなかったためと考えられるが、甘い菓子食べすぎで舌に腫物ができたためという記録(『象志』)もある。 象は長崎越冬し、翌享保14年3月13日西暦1729年4月10日)、長崎進発して江戸向かった輸送手段がなかったため、370里(約1,480キロメートル)の距離を象は陸路みずからの脚で移動した江戸までの移動には計74日間要した。象の歩行速度は、1日あたり3里(約12キロメートル)から5里(約20キロメートル)ほどであった長崎出発する前(享保14年2月)、幕府勘定奉行稲生正武によって街道沿いの々に出され触書では、象が通行する際、見物人決し大きな物音立てないこと、寺院の鐘を鳴らさないこと、牛馬往来避けること、飼料河川を渡るための船を準備すること、道路普請して小石除去すること、宿泊所では大きめ厩舎準備をすることなど、細部まで念の入った指示記されていた。寝所では、1日大量飲料水、わら100斤、ササ150斤、100斤、饅頭50個という膨大な量の飼料用意されたという。 3月13日長崎出発した象は、長崎街道を東に向かい肥前国日見から、矢上永昌諫早経て3月17日には大村宿泊した松原彼杵嬉野武雄北方小田牛津佐賀境原神埼中原轟木各地経由して筑前国入り田代原田山家内野飯塚経て豊前国木屋瀬黒崎経て3月24日小倉城下に入った小倉では、藩主小笠原忠基が象見物をおこなっている。象は翌日関門海峡渡ったが、小倉港からの渡海断念されて大里海岸から船に乗って海峡渡った

※この「象、日本の土を踏む」の解説は、「広南従四位白象」の解説の一部です。
「象、日本の土を踏む」を含む「広南従四位白象」の記事については、「広南従四位白象」の概要を参照ください。

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