象、日本の土を踏む
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「広南従四位白象」の記事における「象、日本の土を踏む」の解説
享保13年6月13日(グレゴリウス暦:1728年7月19日)、清国商人鄭大威が広南国よりオス7歳とメス5歳の雌雄2頭の象に象使い・通訳のそれぞれ2名を連れて長崎港に到着した。鄭大威は当時の貿易許可証である信牌を帯有していなかったともいわれ、珍獣を持ちこんだために特別に入港が許可されたという説がある。重い巨体の象を船から下ろすため、船と波止場のあいだには突堤が築かれ、長崎じゅうの人夫が集められて慎重に陸揚げがなされた。 上陸後は、市中を遠まわりして主だった町内を巡回し長崎の人びとに見物させたうえで唐人屋敷に入った。象使いの1人は49歳の男性譚数(たんすう)、もう1人は31歳の女性漂綿(ひょうめん)でともに安南人(ベトナム人)であった。通訳はともに清国人で、福建省出身で58歳の李陽明と広東省出身で38歳の陳阿印であった。象の調教のことばも、当時の人びとにとっては珍しいものであったようで、「居を、りやうちんりやうちん、喰を、まふそみまふそみ …」(『通航一覧』、原出典は『世説談海』)、「草をくふ事 ロマン、竹の葉をくふ事 アンチユ …」(近藤重蔵『安南紀略藁』)などの「象語」も記録にのこっている。清国人から提出された象に関する説明書は詳細をきわめたものであり、長崎の大通事によって翻訳のうえ幕府に報告された。2頭のうちメスの象は、この年の9月11日に長崎で死亡してしまうが、オスの方は長崎で越冬した。メス象の死亡原因は不明であり、日本の気候や食べ物に適応できなかったためと考えられるが、甘い菓子の食べすぎで舌に腫物ができたためという記録(『象志』)もある。 象は長崎で越冬し、翌享保14年3月13日(西暦1729年4月10日)、長崎を進発して江戸に向かった。輸送手段がなかったため、370里(約1,480キロメートル)の距離を象は陸路みずからの脚で移動した。江戸までの移動には計74日間を要した。象の歩行速度は、1日あたり3里(約12キロメートル)から5里(約20キロメートル)ほどであった。 長崎を出発する前(享保14年2月)、幕府勘定奉行稲生正武によって街道沿いの村々に出された触書では、象が通行する際、見物人は決して大きな物音を立てないこと、寺院の鐘を鳴らさないこと、牛馬の往来を避けること、飼料や河川を渡るための船を準備すること、道路を普請して小石を除去すること、宿泊所では大きめの厩舎を準備をすることなど、細部まで念の入った指示が記されていた。寝所では、1日に大量の飲料水、わら100斤、ササの葉150斤、草100斤、饅頭50個という膨大な量の飼料が用意されたという。 3月13日に長崎を出発した象は、長崎街道を東に向かい、肥前国日見から、矢上、永昌、諫早を経て3月17日には大村に宿泊した。松原、彼杵、嬉野、武雄、北方、小田、牛津、佐賀、境原、神埼、中原、轟木の各地を経由して筑前国に入り、田代、原田、山家、内野、飯塚を経て豊前国木屋瀬、黒崎を経て、3月24日に小倉城下に入った。小倉では、藩主の小笠原忠基が象見物をおこなっている。象は翌日、関門海峡を渡ったが、小倉港からの渡海は断念されて大里海岸から船に乗って海峡を渡った。
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