著名な研究者・治療者とは? わかりやすく解説

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著名な研究者・治療者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 01:14 UTC 版)

ハンセン病」の記事における「著名な研究者・治療者」の解説

ガイ・ヘンリィ・ファジェットGuy Henry Fagetガイ・ヘンリィ・ファジェットは、アメリカ合衆国カーヴィル療養所病院長director, 1940-1947)で、プロミンハンセン病対す有効性発見した1947年心臓病亡くなり没後1958年東京国際らい学会と、1984年のカーヴィル百年祭でも表彰された。なお、The Star初代編集長によると、健康を害したあと事故亡くなったことを示唆している。 小笠原登おがさわらのぼる) 小笠原登は、ハンセン病伝染力弱さからハンセン病体質病説を主張光田健輔らが唱える患者強制隔離反対するも、当時昭和初期)の学会では否定された。 ヒラリー・ロス修道女Sister Hilary Rossアメリカ合衆国カーヴィル療養所薬剤師検査技師研究生化学者research biochemist)、Fagetとの共著含め46編の論文書いた。特にスルホン剤の尿中血中濃度測定し使用法決定、その他広くハンセン病学に貢献し色々な学会出席し1958年にはダミアン・ダットン(Damien-Dutton)賞、プレジデント・メダル(President’s Medal, 女性では初)を与えられた。患者にも慕われ、「カーヴィルの奇蹟」のベティ・マーティンBetty Martin)に検査技術教えた光田健輔(みつだけんすけ光田健輔は、ハンセン病と非ハンセン病区別する目的で、殺菌したらい菌抗原とした研究行った。しかし、それは「L型」と「T型・正常」を区別する光田反応」として完成した光田反応はレプロミン反応とも呼ばれハンセン病複雑な病型理解する上で重要な反応である。実際には、光田愛弟子である林文雄完成した太田正雄は、この反応バンコク学会知りこのような論文埋もれているのは惜しいと、国際雑誌立ち上げた際に文献その1号に掲載した光田1961年ダミアン・ダットン賞受賞した村田茂助(むらたもすけ) 村田茂助は、ハンセン病反応有名な癩性結節性紅斑 Erythema nodosum leprosum ENL(俗にコブ)を世界先駆けて研究命名した全生園外科医師で、光田健輔同時代研究家、彼との共著もある。しかし早く開業転じた石館守三いしだてもりぞう) 石館守三(1901-1996)はハンセン病治療薬であるプロミン合成日本初め成功した東京大学医学部薬学科研究したウイリアム・ジョップリングWilliam H Jopling) ウイリアム・ジョップリングは、ハンセン病分類で有名である。ロンドン大学卒。戦前ハンセン病にも興味あったようであるがアフリカ内科産婦人科をやり、戦時中軍医であった戦後1947年36歳時にロンドン帰り大学院熱帯医学専攻したその後1950年戦後ロンドン郊外古城作られハンセン病病院ジョーダンJordan病院」の住み込み院長となり、そこで病理医リドリーRidleyと共にRidley-Jopling分類完成した1962年にはらい反応研究した。ジョップリングのエピソードとして「1950年代初めにErythema nodosum leprosumの命名者知りたくて尋ねて回り東京から客人によりそれは村田茂助であると分かったということがある。ジョップリングは、彼が独力で書いた教科書Handbook of Leprosyでも有名で、この教科書5版数える。その他、Leprosy stigmaについての論文The Star書かれ自叙伝も有名である。 柳駿 柳駿Joon Lew)は、大韓民国ハンセン病指導者延世大学名誉教授医学生時に徘徊するらい病患者ショックを受け、京城帝国大学九州大学細菌学教室カリフォルニア大学ハンセン病学んだ医師になり、最初に勤務したのは小鹿島更生園であった1947年らい浮浪者団体ボス集め物乞い止めようと、希望という運動始めた朝鮮戦争前に16もの希望ができた。希望運動中央政府により新し定着村運動となった。その他、柳駿医科学研究所理事長になり、ハンセン病関係の種々の役職歴任した毎年開催される日本ハンセン病学会にも出席する。 ケイト・マーズデン (Kate Marsden) イギリス看護婦冒険家旅人。1859生、1931年没。父親ロンドン弁護士。8人兄弟末っ子。たいへんおてんばであったという。父親若死したので病院見習看護婦になった当時彼女はブルガリア戦争に行く志願をしている。トルコ戦争をしたロシア人介護したようであるが、これに関する資料不確実である。イギリス帰り正規看護婦になり、婦長になる。ハンセン病ハワイ療養所勤務したい申し出断られている。インド行こう考えていた時、ロシア赤十字から先の戦争看護功績があったと招待受けた。彼女はロンドン宮殿皇太子妃拝謁ロシア女帝親書書いてもらい、旅に出る。エルサレムコンスタンチノープル現在のトビリシ赴く1890年11月モスクワ到着大主教トルストイ伯爵夫人支援取り付ける北東シベリア目指したが、バイカル湖近くイルクーツク支援委員会作ったイルクーツクらい療養所創設したようである)。その後活躍述べられているが、このプロジェクト協力した人もいる。この旅行真実であったのか、批判もある。 アシュミード アシュミード(Ashmead, Albert Sydney Junior)(1850.4.4 - 1911.2.20)はアメリカ医師で、1874年から1875年にかけ、東京府病院(1874 - 1881)で医学教えた当時日本ハンセン病興味覚え研究始めた1876年帰米。1897年ベルリン国際らい会議強く推進した一人であった。彼はその会議出席はしなかったが、強力な移民禁止隔離論者であった。その会議ハンセン病隔離政策への潮流つくったハンナ・リデル ハンセン病専門病院設立治療体制確立貢献するなど日本ハンセン病史に名を刻んだ

※この「著名な研究者・治療者」の解説は、「ハンセン病」の解説の一部です。
「著名な研究者・治療者」を含む「ハンセン病」の記事については、「ハンセン病」の概要を参照ください。

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