著名な研究者・治療者
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ガイ・ヘンリィ・ファジェット(Guy Henry Faget) ガイ・ヘンリィ・ファジェットは、アメリカ合衆国カーヴィル療養所の病院長(director, 1940-1947)で、プロミンのハンセン病に対する有効性を発見した。1947年に心臓病で亡くなり、没後の1958年に東京の国際らい学会と、1984年のカーヴィル百年祭でも表彰された。なお、The Starの初代編集長によると、健康を害したあと事故で亡くなったことを示唆している。 小笠原登(おがさわらのぼる) 小笠原登は、ハンセン病の伝染力の弱さからハンセン病体質病説を主張。光田健輔らが唱える患者の強制隔離に反対するも、当時(昭和初期)の学会では否定された。 ヒラリー・ロス修道女(Sister Hilary Ross) アメリカ合衆国カーヴィル療養所の薬剤師、検査技師、研究生化学者(research biochemist)、Fagetとの共著を含め、46編の論文を書いた。特にスルホン剤の尿中、血中濃度を測定し、使用法の決定、その他広くハンセン病学に貢献し、色々な学会に出席し、1958年にはダミアン・ダットン(Damien-Dutton)賞、プレジデント・メダル(President’s Medal, 女性では初)を与えられた。患者にも慕われ、「カーヴィルの奇蹟」のベティ・マーティン(Betty Martin)に検査技術を教えた。 光田健輔(みつだけんすけ) 光田健輔は、ハンセン病と非ハンセン病を区別する目的で、殺菌したらい菌を抗原とした研究を行った。しかし、それは「L型」と「T型・正常」を区別する「光田反応」として完成した。光田反応はレプロミン反応とも呼ばれ、ハンセン病の複雑な病型を理解する上で重要な反応である。実際には、光田の愛弟子である林文雄が完成した。太田正雄は、この反応をバンコクの学会で知りこのような論文が埋もれているのは惜しいと、国際雑誌を立ち上げた際に林の文献をその1号に掲載した。光田は1961年にダミアン・ダットン賞を受賞した。 村田茂助(むらたもすけ) 村田茂助は、ハンセン病の反応で有名な癩性結節性紅斑 Erythema nodosum leprosum ENL(俗に熱コブ)を世界に先駆けて研究、命名した。全生園の外科医師で、光田健輔と同時代の研究家、彼との共著もある。しかし早く開業に転じた。 石館守三(いしだてもりぞう) 石館守三(1901-1996)はハンセン病治療薬であるプロミンの合成を日本で初めて成功した。東京大学医学部薬学科で研究した。 ウイリアム・ジョップリング(William H Jopling) ウイリアム・ジョップリングは、ハンセン病の分類で有名である。ロンドン大学卒。戦前はハンセン病にも興味があったようであるがアフリカで内科・産婦人科をやり、戦時中は軍医であった。戦後の1947年、36歳の時にロンドンに帰り、大学院で熱帯医学を専攻した。その後、1950年に戦後ロンドン郊外の古城に作られたハンセン病病院「ジョーダン(Jordan)病院」の住み込み院長となり、そこで病理医のリドリー(Ridley)と共にRidley-Jopling分類を完成した。1962年にはらい反応も研究した。ジョップリングのエピソードとして「1950年代の初めにErythema nodosum leprosumの命名者が知りたくて尋ねて回り、東京からの客人によりそれは村田茂助であると分かった」ということがある。ジョップリングは、彼が独力で書いた教科書Handbook of Leprosyでも有名で、この教科書は5版を数える。その他、Leprosy stigmaについての論文やThe Starに書かれた自叙伝も有名である。 柳駿 柳駿(Joon Lew)は、大韓民国のハンセン病指導者で延世大学名誉教授。医学生の時に、徘徊するらい病患者にショックを受け、京城帝国大学、九州大学細菌学教室、カリフォルニア大学でハンセン病を学んだ。医師になり、最初に勤務したのは小鹿島更生園であった。1947年らい浮浪者の団体のボスを集め、物乞いを止めようと、希望村という運動を始めた。朝鮮戦争前には16もの希望村ができた。希望村運動は中央政府により新しい定着村運動となった。その他、柳駿医科学研究所理事長になり、ハンセン病関係の種々の役職を歴任した。毎年開催される日本ハンセン病学会にも出席する。 ケイト・マーズデン (Kate Marsden) イギリスの看護婦、冒険家、旅人。1859生、1931年没。父親はロンドンの弁護士。8人兄弟の末っ子。たいへんおてんばであったという。父親が若死したので病院の見習看護婦になった。当時彼女はブルガリアの戦争に行く志願をしている。トルコと戦争をしたロシア人を介護したようであるが、これに関する資料は不確実である。イギリスに帰り正規の看護婦になり、婦長になる。ハンセン病のハワイの療養所に勤務したいと申し出、断られている。インドに行こうと考えていた時、ロシア赤十字から先の戦争で看護に功績があったと招待を受けた。彼女はロンドンの宮殿で皇太子妃に拝謁、ロシアの女帝に親書を書いてもらい、旅に出る。エルサレム、コンスタンチノープル、現在のトビリシに赴く。1890年11月。モスクワに到着。大主教やトルストイ伯爵夫人の支援を取り付ける。北東シベリアを目指したが、バイカル湖近くのイルクーツクで支援委員会を作った(イルクーツクらい療養所を創設したようである)。その後の活躍も述べられているが、このプロジェクトに協力した人もいる。この旅行が真実であったのか、批判もある。 アシュミード アシュミード(Ashmead, Albert Sydney Junior)(1850.4.4 - 1911.2.20)はアメリカの医師で、1874年から1875年にかけ、東京府病院(1874 - 1881)で医学を教えた。当時の日本のハンセン病に興味を覚え、研究を始めた。1876年帰米。1897年のベルリン国際らい会議を強く推進した一人であった。彼はその会議に出席はしなかったが、強力な移民禁止、隔離論者であった。その会議はハンセン病隔離政策への潮流をつくった。 ハンナ・リデル ハンセン病専門病院の設立や治療体制の確立に貢献するなど日本のハンセン病史に名を刻んだ。
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