著名な石出帯刀とは? わかりやすく解説

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著名な石出帯刀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/01 16:47 UTC 版)

石出帯刀」の記事における「著名な石出帯刀」の解説

歴代石出帯刀のうちで最も高名な人物が、石出吉深(よしふか、号を常軒。元和元年1615年〉 - 元禄2年1689年〉)である。明暦の大火いわゆる振袖火事)(明暦3年1657年〉)に際して収監者火災から救うために独断で「切り放ち」(期間限定囚人解放)を行ったことにより知られている。吉深は収監者達に対し大火から逃げおおせた暁には必ずここに戻ってくるように。さすれば死罪の者も含め、私の命に替えて必ずやその義理報いて見せよう。もしもこの機に乗じて雲隠れする者が有れば、私自らが雲の果てまで追い詰めて、その者のみならず一族郎党全て成敗する」と申し伝え猛火が迫る中で死罪の者も含めて数百余りの「切り放ち」を行った収監者達は涙を流し手を合わせて吉深に感謝し後日約束通り全員牢屋敷戻ってきたという。吉深は「罪人といえどその義理堅さ誠に天晴れである。このような者達をみすみす死罪とする事は長ずれば必ずや国の損失となる」と評価し老中死罪含めた一等減刑嘆願幕府収監者全員減刑実行する事となった。 この処置はのちに幕閣追認するところとなった上、以後江戸期通じて「切り放ち後に戻ってきた者には罪一等減刑、戻らぬ者は死罪(後に「減刑無し」に緩和された)」とする制度として不文律慣例化されたのみならず明治期制定された旧監獄法による明文化経て現行の刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律刑事収容施設法)にまで引き継がれている(旧監獄法22条1項及び刑事収容施設法832項2152項263条2項288条・2891項参照)。なお、旧監獄法時代には関東大震災太平洋戦争大東亜戦争末期空襲の折に、実際に刑務所受刑者を「切り放ち」した記録残されている。 吉深は歌人連歌師としても知られており、当時江戸四大連歌師一人挙げられている。歌集には『追善千句』『明暦二年常軒五百韻注』などがある。また著作一つ所歴日記』は、江戸時代初期代表的紀行文一つ数えられている。一方国学者としても重要な事績残しており、廣田坦斎や山鹿素行から伝授され忌部神道を、のちに垂加神道創始者となる山崎闇斎伝えている。また吉深が著した『源氏物語』注釈書『窺原抄』について、北村季吟の『湖月抄』に匹敵する評する国文学者もいるほどである。さらに、日本のみならず中国有職故実にも通じていたことも知られている。 足立区千住曙町所在千葉山西光院には、吉深以下三代墓碑と、吉深の実子でのちに囚獄世襲した師深が建立した吉深の彰徳碑「日念碑」が残されている。「日念碑」によると、吉深は千葉介常胤の子孫で帯刀家養子入ったとされる。なお、著名な江戸学研究家三田村鳶魚は吉深の出自について千住掃部宿出身石出氏の次男兵衛とし、一方玉林晴朗石出図書常政の孫としている。 元禄2年3月2日1689年4月21日)没。法名正定院了修日念。当初善慶寺埋葬されたが、のちに上記西光院改葬された。吉深は江戸時代初期代表的文化人一人であると評価されている。

※この「著名な石出帯刀」の解説は、「石出帯刀」の解説の一部です。
「著名な石出帯刀」を含む「石出帯刀」の記事については、「石出帯刀」の概要を参照ください。

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