肯定側主張について
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民衆殺害について “民衆に対する殺害”に関し、研究者は次の留意を記している。中支では民衆に「抵抗することが要求され」た。(ただし、中国住民側からこのようなことが求められたとの証言はほとんど見られない。また、この主張をする者は抵抗と戦闘との区別がついているのかも不明である。)「上海で日本軍歓迎の旗を振る婦人の列の陰から便衣隊が一斉射撃をした。不意を衝かれた日本軍の死体は、見る見るうちに山と築かれていった。「老婆といえども情報を探って通報する恐れ」があった。某カメラマンの言「一度自分がやられそうになった時、相手をやらなければ自分がやられるのだな、ということをしみじみ痛感させられた」。なお昭和20年小磯國昭内閣が本土決戦のために「国民義勇隊」を組織化すると発表したとき、南原繁教授(東京帝国大学法学部長)は次のように語っている。「ゲリラをしますとね、虐殺されても仕方ないです。本当の戦闘員ですと、捕虜として待遇され、そうにひどい目に遭うことはないですが、ゲリラですと直ちに殺されても文句はいえません。あれは一番ひどい目に合います」。 志々目彰および回想記(1971年発表)について 志々目彰が野田から聴いたという講演内容によれば「「占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る」。一方、「百人斬り訴訟」裁判の原告側は「中国国民党は、ドイツ式の組織防衛戦を行い、日本軍と遜色ない武器を携帯した近代軍隊でありニーライライと呼びかけられ、塹壕から出てくることはあり得ない」と主張した。 処刑について「日本の新聞はニュースさえ報道していない」。野田の同期生・手島清忠も「銃殺されたことを知ったのは後のことである」と1972年に語っている。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}志々目が“新聞記事”を読み「銃殺は当たり前」と考えたのは極東裁判(1948年)当時ではない。後の情報(次に話題になるのは23年後)を基に考えたことを、当時の話として語っている[誰によって?]。(ただし、この主張はあまり意味があると思えない。前年に酒井隆陸軍中将や同年3月に田中久一陸軍中将が銃殺されたことや、野田らに12月に死刑判決が出たことはそれぞれ当時新聞でも報じられている。志々目がそのような記事が出たと当時から思いこむことがあったとしても不思議はない。) 望月五三郎の回想記(1985年刊)について 望月の回想記に「重機関銃、軽機関銃の猛射で城壁は破壊されていく」「戦車が城門めがけて激突破した」などとあるが、本当の体験記なのかと思うほど間違いが多いと阿羅健一は言う。 「百人斬りの勇士と・・・一躍有名になった人である」。望月はこれを昭和12年11月27日-11月28日の条に記している。東京日日新聞の第1報が出るのが昭和12年11月30日、有名になるのはその後である。また、第1報が出るまでに“競争”が始まっていないことは、名誉棄損訴訟に於ける佐藤振寿の証言がある。これについては、日記と回想記を混同しているとする反論がある。 望月の回想記では、「連隊長も大隊長も知っていた筈である。にもかかわらずこれを黙認した」としている。が、野田の士官学校の同期生吉田大桂司からは、伝聞の形ではあるものの片桐連隊長が野田を厳しく戒めたと聞く、あるいは叱ったらしいとの証言もある。(ただし、同じ連隊の向井はかなり後まで何百人斬りといった形で続けていたことが当時のその後の報道にも出ている。(「当時の報道」欄参照)) 遺族の名誉棄損による賠償訴訟を担当した弁護士の稲田朋美は、望月の親族が電話取材に対し「だれもあんな人のいうことを信用していませんよ。親族にも迷惑ばかりかけていました。そういう本を書いて関係者の方々に送ったということですが、だれも相手にしていないと思います」と語ったという。 本多勝一のルポについて ほとんど知られることのなかった「百人斬り伝説」を「本多勝一記者は中国旅行中に南京で聞きこん」で「『朝日新聞』の連載でむし返し」たと非難する意見がある。鈴木明は、「ルポは、そのネタとなった35年前の『毎日』の記事と比べて、1.戦闘中の手柄話が、故意に平時の殺人ゲームにスリかえられている。2.『上官命令』というフィクションがつけ加えられている。3.『百人斬り』が3回もくり返されたように誇張された表現となっている、など、明らかに『勘ちがい』とはいえない『作りかえ』が成されており・・数十倍も強烈である」という。これに対しては、実際に現地にそのように伝わっている、さらに当時この裁判の模様が裁判所内に入りきれない人に公開できるよう所内の発言が拡声機ピーカーで外に中継されたことは研究者で知る者は比較的多く、その中継内容と言い伝えとの関係すら調べずにこのような批判ができるのかという反論、寧ろ戦闘中にこのようなことを行うのは困難だからこそ戦闘外での捕虜の処刑ではないかと人々が疑っている方こそ正しいのではないかといった反論がある。(なお、実際に当事者からそれぞれ300人を超す人間を斬ったという話が出ていたことがその後分かっている。「当時の報道」欄参照) 名誉棄損裁判(後述)に原告側の証人として出廷した佐藤振壽は証人尋問で、本多の取材手法や検証のなかったことを批判した。佐藤は「私に聞かないで百人斬りの話なんか分かるはずはないと思って、従って、朝日新聞の記事はうそであるという結論に至りました。ジャーナリストが一つの事実を報道する場合に、あくまでそれが真実であると確信しなければ、原稿に書いてはいけないことなんですよ」と語った。ただし、この主張に対しては、その論法であれば虚偽の話が流れているときに元の話が事実でないかもしれないから其れについて語ってはいけないという事になり反って嘘が流れるままにしなければならないという理屈になってしまう、本多は中国でそういう話が伝わっているというまさに事実の方を伝えたものだ、そもそもジャーナリズムには引用という手法が確立しているという反論がある。 秦郁彦は、田中正明が本多を"無責任なレポーター"と評したことを紹介している。
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