肯定側とは? わかりやすく解説

肯定側

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:50 UTC 版)

神護寺三像」の記事における「肯定側」の解説

仏教絵画専門にする美術史家泉武夫は、多く仏画からサンプル画像集め絹目編年的に比較する研究行った絵絹は、やや太い横糸1本に対し縦糸が2本という比で織られるのが一般的で、糸の太さ織り密度には、生産地日本中国か)や年代によって異な傾向がある。泉によると、絵絹平安後期比較密度高く上質で、鎌倉前期には更に密になる鎌倉末期から南北朝に入ると疎らに変わって縦糸細くなり、南北朝後期から室町時代縦・横糸共に細くい組織となる。桃山から江戸になると再び織成の密度は高まる。これをふまえて三蔵絵絹観察すると、二本縦糸極端に細く絹目空き気味な頼朝重盛像の絵絹は、13世紀中に類品は全く見られない。近いのは14世紀に下る「鳥羽天皇像」(根来寺万願寺にある2点)、「金沢貞顕像」などで、三像は14世紀作られ日本絵絹だと指摘し黒田絵絹論を補強した。また泉は、伝頼朝像と「夢窓疎石像」は、表現のみならず絹の組成近似していることを指摘し、「夢窓疎石像」の写実技法と「鳥羽天皇像」における広絹の施工法組み合わせれば絵画史的に14世紀に伝源頼朝像が出現する可能性はあるとしている。 また鎌倉期肖像画研究する伊藤大輔は、13世紀前半に宋風を積極的に取り入れた明恵上人樹木坐像図」が、相貌表現限って未だ大和絵表現に留まっているのに対し神護寺三像はより漢画風が強まっており、頂相移入通じた宋代肖像画吸収した果て生まれたのが妥当とし、14世紀作品論じた。更に、中世やまと絵の専門家高岸輝は、伝頼朝像と伝重盛像が柔らかな淡墨輪郭線やの暈を駆使して立体感実在感を描き出し平安から宋からの流れ感じられるのに対し、伝光能像は輪郭線や暈がやや生硬でより形式化進んでいるのを指摘する。この形式性は、15世紀活躍した土佐行広描いた足利義満像」(1408年鹿苑寺)、「足利満詮像」(1418年以前大徳寺養徳院)、「満済准后像(1434年醍醐寺三宝院)に繋がる様式示し描いた絵師候補として尊氏義詮義満周辺活躍した土佐派の祖・土佐行光有力だ推測できる。そう考えると、伝頼朝像と伝重盛像は古代から鎌倉時代へと続く肖像画終点に、伝光能像は室町肖像画始点それぞれ位置づけることができ、三像を中世絵画様式における継承断絶象徴する作品だと論じている。他には美術史家加須屋誠は、14世紀日本美術初め本格的に論じるなかで三像を取り上げ、他の14世紀遺品との繋がり指摘し、そのなかの頂点位置する作品だと論じている。

※この「肯定側」の解説は、「神護寺三像」の解説の一部です。
「肯定側」を含む「神護寺三像」の記事については、「神護寺三像」の概要を参照ください。

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