終戦後の苦悶と焦燥とは? わかりやすく解説

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終戦後の苦悶と焦燥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:28 UTC 版)

三島由紀夫」の記事における「終戦後の苦悶と焦燥」の解説

終戦直後、公威は学習院恩師清水文雄に、〈玉音放送感涙を催ほし、わが文学史伝統護持使命こそ我らに与へられた使命なることを確信しました〉と送り学習院後輩にも、〈絶望せず、至純至高志美なるもののために生き生きて下さい。(中略)我々はみことを受け、我々の文学とそれを支へ詩心個人のものではありません。今こそ清く高く爽やかに生きて下さい及ばず乍ら私も生き抜き、戦ひます〉と綴った 三谷信には、〈自分一個のうちにだけでも、最大美し秩序築き上げたいと思ひます。戦後文学、芸術復興と、その秩序づけにも及ばず乍ら全力つくして貢献したい〉と戦後への決意綴り9月自身ノートには「戦後語録」として、〈日本的非合理温存のみが、百年後世界文化貢献するであらう〉と記した。 「エスガイの狩」を採用した文藝』の野田宇太郎へも、〈文学とは北極星如く秩序道義その本質とし前提とする神のみ業であります故に、この神に、わき目もふらず仕へることにより、我々の戦ひは必ずや勝利を得ることを確信いたします〉と熱い思い伝えた公威だったが、戦時中遺作となる覚悟書いた岬にての物語」を、野田から「芥川賞向き文壇向き作風」と見当違い誤解をされ、「器用」な作だと退けられてしまった。そのため、公威は一人前作家として将来設計苦慮することになった。 公威が私淑していた蓮田善明マレー半島陸軍中尉として終戦迎えるが、同年8月19日には駐屯地マレー半島ジョホールバル天皇愚弄した連隊長中条豊馬大佐軍用拳銃射殺し、自らもこめかみ拳銃当て自決した没年41歳)。公威は、この訃報翌年の夏に知ることになる。 1945年昭和20年10月23日、妹・美津子腸チフス含んだ生水飲んだのが原因)によって17歳急逝し、公威は号泣したまた、6月軽井沢訪問後に邦子との結婚三谷家から打診されて逡巡していた公威は、邦子が銀行員永井邦夫(父は永井松三)と婚約してしまったことを、同年11月末か12月頃に知った翌年1946年昭和21年5月5日に邦子と永井結婚し、公威はこの日自宅泥酔する恋人横取りされる形になった公威にとって、〈妹の死と、この女性の結婚と、二つ事件が、私の以後文学的情熱推進する力〉になっていった。邦子の結婚後の同年9月16日、公威は邦子と道で遭遇しこの日のこと日記ノート記した。 偶然邦子にめぐりあつた。試験がすんだので友達をたづね、留守だつたので、二時にかへるといふので、近くぶらぶらあてどもなく歩いてゐた時、よびとめられた。彼女は前より若く却つて娘らしくなつてゐた。(中略その日一日僕の胸はどこかで刺されつゞけてゐるやうだつた。前日まで何故といふことなく僕は、「ゲエテとの対話」のなかの、彼が恋人めぐりあふ夜の町の件を何度もよんでゐたのだつた。それは予感だ。世の中にはまだふしぎがある。そしてこの偶然の出会今度小説書けといふ暗示なのか? 書くなといふ暗示なのか? — 平岡公威ノート昭和21年)」 この邦子とのことは、のちの自伝的小説仮面の告白』の中で詳しく描かれることになる。 1946年昭和21年1月1日昭和天皇が「人間宣言」の詔書発したまた、それに先立つ1945年9月には、連合国軍占領下の日本における最高司機関GHQ総司令官ダグラス・マッカーサー昭和天皇会見し、その写真新聞掲載された。公威はこれについて、親友三谷信に「なぜ衣冠束帯の御写真にしないのか」と憤懣ふんまん)を漏らしたという。また、三谷焼跡だらけのハチ公前を歩いている時には天皇制攻撃し始めたジャーナリズムへの怒り露わにし、「ああいうことは結局のところ世に受け入れられるはずが無い」と強く断言したという。三谷は、そういう時の公威の言葉には「理屈抜き烈しさがあった」と述懐している。 なお、この時期ちょうど、斎藤吉郎という元一高文芸部委員で公威が17歳の時から親交のあった人物が、同時代詩人たちの詩集叢書の形で出版する計画関与し、公威の詩も叢書一巻にしたいという話を持ちかけていた。公威はそれに喜んで応じ、その詩集名を『豊饒の海』とする案を以下のように返信したが、この詩集用紙入手難などの事情実現しなかった。 この詩集には、荒涼たる月世界なき海の名、幻耀の外面暗黒実体、生のかゞやかしい幻影と死の本体とを象徴する名『豊饒の海』といふ名を与えよう、とまで考へるやうになりました詩集豊饒の海』は三部分れ恋歌と、思想詩と、譚詩とにわかれます幼時少年時の詩にもいくらか拾ひたいものがありますが、それは貴下選んでいたゞきませう。これが貴下の御厚意への僕の遠慮のないお答へです。 — 平岡公威斎藤吉郎宛て書簡」(昭和21年1月9日付)

※この「終戦後の苦悶と焦燥」の解説は、「三島由紀夫」の解説の一部です。
「終戦後の苦悶と焦燥」を含む「三島由紀夫」の記事については、「三島由紀夫」の概要を参照ください。

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