終戦後の苦悶と焦燥
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終戦直後、公威は学習院恩師の清水文雄に、〈玉音の放送に感涙を催ほし、わが文学史の伝統護持の使命こそ我らに与へられた使命なることを確信しました〉と送り、学習院の後輩にも、〈絶望せず、至純至高志美なるもののために生き生きて下さい。(中略)我々はみことを受け、我々の文学とそれを支へる詩心は個人のものではありません。今こそ清く高く、爽やかに生きて下さい。及ばず乍ら私も生き抜き、戦ひます〉と綴った 三谷信には、〈自分一個のうちにだけでも、最大の美しい秩序を築き上げたいと思ひます。戦後の文学、芸術の復興と、その秩序づけにも及ばず乍ら全力をつくして貢献したい〉と戦後への決意を綴り、9月の自身のノートには「戦後語録」として、〈日本的非合理の温存のみが、百年後世界文化に貢献するであらう〉と記した。 「エスガイの狩」を採用した『文藝』の野田宇太郎へも、〈文学とは北極星の如く、秩序と道義をその本質とし前提とする神のみ業であります故に、この神に、わき目もふらずに仕へることにより、我々の戦ひは必ずや勝利を得ることを確信いたします〉と熱い思いを伝えた公威だったが、戦時中に遺作となる覚悟で書いた「岬にての物語」を、野田から「芥川賞向き、文壇向きの作風」と見当違いの誤解をされ、「器用」な作だと退けられてしまった。そのため、公威は一人前の作家としての将来設計に苦慮することになった。 公威が私淑していた蓮田善明はマレー半島で陸軍中尉として終戦を迎えるが、同年8月19日には駐屯地のマレー半島のジョホールバルで天皇を愚弄した連隊長・中条豊馬大佐を軍用拳銃で射殺し、自らもこめかみに拳銃を当て自決した(没年齢41歳)。公威は、この訃報を翌年の夏に知ることになる。 1945年(昭和20年)10月23日、妹・美津子が腸チフス(菌を含んだ生水を飲んだのが原因)によって17歳で急逝し、公威は号泣した。また、6月の軽井沢訪問後に邦子との結婚を三谷家から打診されて逡巡していた公威は、邦子が銀行員・永井邦夫(父は永井松三)と婚約してしまったことを、同年11月末か12月頃に知った。 翌年1946年(昭和21年)5月5日に邦子と永井は結婚し、公威はこの日自宅で泥酔する。恋人を横取りされる形になった公威にとって、〈妹の死と、この女性の結婚と、二つの事件が、私の以後の文学的情熱を推進する力〉になっていった。邦子の結婚後の同年9月16日、公威は邦子と道で遭遇し、この日のことを日記やノートに記した。 偶然邦子にめぐりあつた。試験がすんだので友達をたづね、留守だつたので、二時にかへるといふので、近くをぶらぶらあてどもなく歩いてゐた時、よびとめられた。彼女は前より若く却つて娘らしくなつてゐた。(中略)その日一日僕の胸はどこかで刺されつゞけてゐるやうだつた。前日まで何故といふことなく僕は、「ゲエテとの対話」のなかの、彼が恋人とめぐりあふ夜の町の件を何度もよんでゐたのだつた。それは予感だ。世の中にはまだふしぎがある。そしてこの偶然の出会は今度の小説を書けといふ暗示なのか? 書くなといふ暗示なのか? — 平岡公威「ノート(昭和21年)」 この邦子とのことは、のちの自伝的小説『仮面の告白』の中で詳しく描かれることになる。 1946年(昭和21年)1月1日、昭和天皇が「人間宣言」の詔書を発した。また、それに先立つ1945年9月には、連合国軍占領下の日本における最高司令機関GHQの総司令官ダグラス・マッカーサーと昭和天皇が会見し、その写真が新聞に掲載された。公威はこれについて、親友の三谷信に「なぜ衣冠束帯の御写真にしないのか」と憤懣(ふんまん)を漏らしたという。また、三谷と焼跡だらけのハチ公前を歩いている時には、天皇制を攻撃し始めたジャーナリズムへの怒りを露わにし、「ああいうことは結局のところ世に受け入れられるはずが無い」と強く断言したという。三谷は、そういう時の公威の言葉には「理屈抜きの烈しさがあった」と述懐している。 なお、この時期ちょうど、斎藤吉郎という元一高の文芸部委員で公威が17歳の時から親交のあった人物が、同時代の詩人たちの詩集を叢書の形で出版する計画に関与し、公威の詩も叢書の一巻にしたいという話を持ちかけていた。公威はそれに喜んで応じ、その詩集名を『豊饒の海』とする案を以下のように返信したが、この詩集は用紙の入手難などの事情で実現しなかった。 この詩集には、荒涼たる月世界の水なき海の名、幻耀の外面と暗黒の実体、生のかゞやかしい幻影と死の本体とを象徴する名『豊饒の海』といふ名を与えよう、とまで考へるやうになりました。詩集『豊饒の海』は三部に分れ、恋歌と、思想詩と、譚詩とにわかれます。幼時少年時の詩にもいくらか拾ひたいものがありますが、それは貴下に選んでいたゞきませう。これが貴下の御厚意への僕の遠慮のないお答へです。 — 平岡公威「斎藤吉郎宛ての書簡」(昭和21年1月9日付)
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