終戦後国鉄総裁へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 00:00 UTC 版)
1946年(昭和21年)4月に市長を辞任した後は日本経済復興協会会長や鉄道弘済会会長を務める。一方で、1954年(昭和29年)9月に国鉄の青函連絡船洞爺丸が台風により転覆して1000人以上の死者を出し(洞爺丸事故)、翌1955年(昭和30年)5月には宇高連絡船紫雲丸が沈没して168人が死亡(紫雲丸事故)する。3代目総裁長崎惣之助が引責辞任するも、赤字体質と相次ぐ事故による世間の批判集中により、後任の成り手がいなかった。 国鉄を心配する十河に、「そんなに言うんなら、あんたがやったらどうか」と、白羽の矢が立つが、年齢と健康を理由に固辞する。しかし、同じ四国出身の国会議員で日本民主党総務会長の三木武吉に「君は赤紙を突き付けられても祖国の難に赴くことを躊躇する不忠者か」と説得され、「俺は不忠者にはならん」と言い、同年5月15日に総裁職を引き受けてしまう。結局71歳という高齢でありながら、5月20日に第4代日本国有鉄道総裁に就任した。翌1956年(昭和31年)には、産業計画会議委員(議長・松永安左エ門)に就任する。 当時は大事故が立て続けに起こり、国鉄の信用は地に墜ちていた。そこで登板した十河に対し、「鉄道博物館から引っ張りだされた古機関車」との酷評もあった。それに対し総裁就任時、「最後のご奉公と思い、赤紙を受けて戦場に行く兵士のつもりで、鉄路を枕に討ち死にの覚悟で職務にあたる」という挨拶をして、信用の回復を第一目標とする形で引き受けた。
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