終戦後の特攻隊員の慰霊と特攻平和観音像の建立
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「知覧特攻平和会館」の記事における「終戦後の特攻隊員の慰霊と特攻平和観音像の建立」の解説
沖縄戦で日本陸軍の陸軍航空隊第6航空軍司令官として特別攻撃を指揮した菅原道大が、終戦後に自決を決心するも、参謀長の川嶋虎之輔少将から「特攻隊の精神顕彰事業を為すは菅原将軍をおいて無し」と説得され、「正に然り、特攻精神の継承、顕彰は余を以って最適任者たること、予之を知る」 と自決することを止めて、もっとも特攻を知る者として、特攻隊員の顕彰、慰霊、遺族への弔問を行うことを決心、全国の特攻隊員の遺族巡りをしていた。 知覧飛行場は戦後に進駐してきたアメリカ海兵隊に破壊されて跡形も無くなっており、「特攻の母」こと鳥濱トメが、独自で跡地に木切れの慰霊碑を立てて生花や線香を絶やさずに供し慰霊を続けているだけであった。遺族巡りを続けていた菅原は、特攻隊員の慰霊施設の必要性を痛感し、元日本陸軍航空総軍司令官河辺正三や軍令部総長及川古志郎ら元軍幹部などと「特攻平和観音奉賛会」を設立、法隆寺の夢違観音像にちなみ、胎内に菅原直筆の特攻戦没者の芳名を記した巻物が収められた「特攻平和観音像」を4体建立し、うち1体を、陸軍航空隊の特攻基地であった知覧に祀りたいと知覧町に申し出た。同時に、菅原らは観音像を祀る観音堂建立のための協力も要請し、菅原らは日本全国で寄付金を募った。地元知覧でも、鳥濱が知覧町役場に協力を要請するなど積極的に行動していたが、観音堂建立の動きは戦後間もなくの反軍反戦の風潮のなかで、平和運動団体などから「戦争賛美」と批判されるなど大変な苦労があった。鳥濱ら関係者はその都度「戦争犠牲者慰霊のための観音堂がなぜ悪いか」とはっきり反論している。やがて、鳥濱らの要請を受けて知覧町も工費の一部を負担することとなり、陸軍航空隊知覧飛行場跡地に特攻隊員の精神の顕彰と世界平和の祈念を目的に1955年(昭和30年)9月28日に「特攻平和観音堂」が建立され、観音像は「知覧特攻平和観音像」と命名され観音堂に収められた。「特攻平和観音堂」は、特攻隊員の慰霊施設を永年にわたって望んできた鳥濱や、知覧町立高等女学校(現鹿児島県立薩南工業高等学校)の女学生で特攻隊員の世話をした「なでしこ隊」の元女学生ら知覧町民を喜ばせた。 知覧の知名度向上には、作家高木俊朗の著作も大いに貢献している。高木は、自らが批判してきた菅原ら特攻指導者が主導して建立した「特攻平和観音像」に対して否定的であったが、功利打算なく特攻隊員を供養し続ける鳥濱をクローズアップすることで「特攻平和観音像」に意義を見いだそうと考え、自分の著作に鳥濱を何度も登場させた。とくに1964年6月劇場公開された、高木の特攻に関する著作の映画化である『出撃』で鳥濱を「特攻おばさん」として紹介、この映画上映後に高木は知覧を訪れて、鳥濱の旅館に宿泊し、知覧高等女学校の女生徒で編成された勤労奉仕隊「なでしこ隊」の元女学生らから証言を集めるなど取材を行って、この取材に基づき、1964年から1965年にかけて「週刊朝日」で知覧特攻基地についての連載を行い、後にこの連載は『知覧』として書籍化された。高木が知覧町に訪れたときに撮影された、笑顔で会食する高木と元女学生の写真が知覧町の町報に掲載されており、当時の高木に対する知覧町の歓迎の様子がうかがえる。 鳥濱は高木の著作に取り上げられたことで、知名度が全国区となっていったが、さらに1972年に、歌謡曲『岸壁の母』を二葉百合子がカヴァーしたことによって起こったリバイバルブームで、「岸壁の母」のモデル端野いせのように銃後の母の物語が注目されるようになり、自分の息子のように特攻隊員と優しく接した鳥濱も銃後の母の1人としてクローズアップされて、「特攻おばさん」から「特攻の母」と呼ばれるようになって、更に知名度が向上していき、全国放送のテレビ番組にも出演して、鳥濱をモデルにした歌謡曲「基地の母」(歌唱:菊池章子)も発売されて、鳥濱と「特攻基地知覧」の名前は全国に知れ渡った。
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