終戦後の富山飛行場
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Clip 1946年(昭和21年)7月22日撮影の旧富山飛行場跡地。漸次開拓されつつある様子が看取できる。 Clip 1952年(昭和27年)11月9日撮影の旧富山飛行場跡地。跡地は全く耕地となり、和合中学校が建設されている。 玉音放送直後の1945年(昭和20年)8月19日より25日の間には、軍の退散命令により光州飛行場から帝国海軍所属の軍用機が9機飛来し、混乱に乗じて機体を焼却処分した。同年8月24日には連合国軍より日本国籍の一切の航空機はその飛行を禁ずる旨が通達され、9月2日には連合国軍最高司令官総司令部が日本政府に対し一切の飛行場を現状のまま引渡すように命令した。10月28日に米軍が電気ビルを接収して富山県に軍政を敷いてからは、富山飛行場をその監視下に置くようになった。呉羽山等に隠されていた軍用機は処分され、旧飛行場の資材は度々盗難に遭った。 同年9月14日より同年10月10日まで終戦連絡として緑十字飛行が日本人によって東京 - 新潟 - 富山 - 福知山 - 大阪間において行われ、続いて同年10月11日から1946年(昭和21年)2月6日までは米軍による終戦連絡飛行である「インピリアル・クーリアース」が東京 - 新潟 - 富山 - 大阪間に行われた。この間米軍は定期便のほかに臨時便を以て衣服やビールの買出しを行い、富山飛行場の性能に関して詳細な調査を行っていたが、結局1946年(昭和21年)5月29日に富山飛行場の敷地は大蔵省に返還され、続いて同年10月2日に大蔵省から農林省に移管された。 農林省はその敷地を開拓財産として富山飛行場の土地138 ha及び建物148 m2が入植者23戸、増反者445戸を引揚者や戦災罹災者に売却した。食糧難を背景として入植者となった引揚者や戦災罹災者は、機械の普及していない状況下でのコンクリートや砂利の撤去作業に苦しめられながら開墾を進め、サツマイモや菜種を収穫できる畑を拓いていったという。この開拓に当った人々は、1947年(昭和22年)2月に旧富山飛行場の水田化を目的として倉垣開拓農事実業組合を発足させ、同年9月13日にこれを倉垣開拓農業協同組合と改称した。旧飛行場は標高が周囲より高く、水利の便が悪かったので、同地区は緊急開拓農地開発委託事業の指定を受け、融資によって揚水ポンプを設置した。同組合の活動により、1949年(昭和24年)頃から旧富山飛行場は再び水田へと戻り始めていったという。また、一部は富山市立和合中学校の敷地に転用された。 1963年(昭和38年)8月20日に富山市秋ヶ島に富山空港が開港した。この富山空港は手狭であったので、航空機の大型化に対応し難く、1972年(昭和47年)2月11日(あるいは、2月29日)には富山県が再び富山飛行場跡地に2,000 - 2,500m級の滑走路を建設して国際空港とする構想を発表したが、地元住民の反対によって中止されている。
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