終戦後の富山飛行場とは? わかりやすく解説

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終戦後の富山飛行場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 07:08 UTC 版)

富山飛行場」の記事における「終戦後の富山飛行場」の解説

Clip 1946年昭和21年7月22日撮影の旧富山飛行場跡地漸次開拓されつつある様子が看取できる。 Clip 1952年昭和27年11月9日撮影の旧富山飛行場跡地跡地は全く耕地となり、和合中学校建設されている。 玉音放送直後1945年昭和20年8月19日より25日の間には、軍の退散命令により光州飛行場から帝国海軍所属軍用機が9機飛来し混乱乗じて機体焼却処分した。同年8月24日には連合国軍より日本国籍一切航空機その飛行禁ずる旨が通達され9月2日には連合国軍最高司令官総司令部日本政府対し一切飛行場現状のまま引渡すように命令した10月28日米軍電気ビル接収し富山県軍政敷いてからは、富山飛行場をその監視下に置くようになった呉羽山等に隠されていた軍用機処分され、旧飛行場資材は度々盗難遭った同年9月14日より同年10月10日まで終戦連絡として緑十字飛行日本人によって東京 - 新潟 - 富山 - 福知山 - 大阪間において行われ続いて同年10月11日から1946年昭和21年2月6日までは米軍による終戦連絡飛行である「インピリアル・クーリアース」が東京 - 新潟 - 富山 - 大阪間に行われたこの間米軍定期便のほかに臨時便を以て衣服ビール買出し行い富山飛行場性能に関して詳細な調査行っていたが、結局1946年昭和21年5月29日富山飛行場敷地大蔵省返還され続いて同年10月2日大蔵省から農林省移管された。 農林省はその敷地開拓財産として富山飛行場土地138 ha及び建物148 m2が入植者23戸、増反445戸を引揚者戦災罹災者売却した食糧難背景として入植者となった引揚者戦災罹災者は、機械普及していない状況下でのコンクリート砂利撤去作業苦しめられながら開墾進めサツマイモ菜種収穫できる畑を拓いていったという。この開拓に当った人々は、1947年昭和22年2月に旧富山飛行場水田化目的として倉垣開拓農事実業組合発足させ、同年9月13日にこれを倉垣開拓農業協同組合改称した。旧飛行場標高周囲より高く水利の便が悪かったので、同地区は緊急開拓農地開発委託事業指定を受け、融資によって揚水ポンプ設置した。同組合活動により、1949年昭和24年)頃から旧富山飛行場は再び水田へと戻り始めていったという。また、一部富山市立和合中学校敷地転用された。 1963年昭和38年8月20日富山市秋ヶ島に富山空港開港した。この富山空港手狭であったので、航空機大型化対応し難く1972年昭和47年2月11日(あるいは、2月29日)には富山県が再び富山飛行場跡地に2,000 - 2,500m級の滑走路建設して国際空港とする構想発表したが、地元住民反対によって中止されている。

※この「終戦後の富山飛行場」の解説は、「富山飛行場」の解説の一部です。
「終戦後の富山飛行場」を含む「富山飛行場」の記事については、「富山飛行場」の概要を参照ください。

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