終戦後の5年間とは? わかりやすく解説

終戦後の5年間

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 12:19 UTC 版)

黒澤明」の記事における「終戦後の5年間」の解説

終戦後最初の仕事は、川口松太郎依頼執筆した戯曲『喋る』で、1945年12月有楽座新生新派により上演された。戦後の初監督作は『わが青春に悔なし』(1946年)であるが、当時会社東宝争議組合映画製作に強い権限を持つようになり、この作品組合主導企画審議会から楠田監督の『命ある限り』と内容類似していると言われ改稿余儀なくされた。1946年10月には第2次東宝争議発生しスト反対した所属スターが「十人の旗の会」を率いて退社し新東宝設立参加したスター主義新東宝対抗するため、黒澤など東宝スタッフたちは伊豆旅館集まり組合中心で5本の監督主義作品企画したそのうち黒澤は『素晴らしき日曜日』(1947年)を監督し谷口監督の『銀嶺の果て』とオムニバス映画四つの恋の物語』(どちらも1947年第1話「初恋」脚本執筆した1948年公開の『醉いどれ天使』は、山本監督『新馬鹿時代』1947年)で使われ闇市大規模なオープンセット活用するための企画として作られた。この作品では『銀嶺の果て』でデビューしたばかりの三船敏郎初めコンビ組み主人公結核患う若いヤクザ役に起用したまた、姿三四郎』から黒澤作品出演していた志村喬アル中医師役で初め主役に抜擢し、以後黒澤作品主役三船志村とで分け合う時期続いた作曲家早坂文雄とも初めコンビ組んでおり、1955年早坂亡くなるまで二人私生活でも親友関係となった。『醉いどれ天使』は黒澤作品初めての傑作目されキネマ旬報ベスト・テンで1位に選ばれ毎日映画コンクール日本映画大賞受賞した同年3月東宝争議映画製作十分にできなくなったことから、山本谷口成瀬巳喜男プロデューサー本木荘二郎同人組織映画芸術協会」を設立した。その翌月第3次東宝争議開始すると、黒澤は製作現場を守るため組合側に加わり、同協会争議終結まで開店休業態となった。黒澤組合立場代弁する東宝紛争 演出家立場から」という文章発表し8月東宝監督プロデューサーによる芸術家グループ会社側を批判する声明文署名した。さらに給料支払い止められ組合員資金カンパのため、『醉いどれ天使』を劇化して全国各地巡業しチェーホフ戯曲結婚申込み』も演出した。10月19日第3次東宝争議終結した争議終結後東宝離れ映画芸術協会足場にして他社映画製作をすることになった最初他社作品は、助監督時代から脚本執筆した縁故がある大映での『静かなる決闘』(1949年)で、菊田一夫戯曲堕胎医』を原作にしている。その次に新東宝映画芸術協会共同製作した『野良犬』(1949年)は、黒澤好きだったジョルジュ・シムノン犯罪小説意識した作品で、ピストル盗まれ新人刑事老練刑事とともに犯人を追うという内容だが、これは実際刑事の話元にしている。この作品日本刑事映画のジャンル決定づける古典となり、芸術祭文部大臣賞受賞するなど好評受けた

※この「終戦後の5年間」の解説は、「黒澤明」の解説の一部です。
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