終戦後から落合一家継承まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 07:37 UTC 版)
「高橋岩太郎」の記事における「終戦後から落合一家継承まで」の解説
このころ、高橋岩太郎は、渋谷代官山に居を構え、恵比寿駅前に事務所を設置していた。事務所には、常時20、30人の若衆が詰めていた。高橋岩太郎は、渋谷・恵比寿の3ヶ所で毎日常盆を開帳した。高橋岩太郎は、恵比寿にあった7ヶ所の闇市のうち、6ヶ所を守りした。高橋岩太郎は、渋谷駅近くの闇市のマーケットに、自分の店を2店出店した。 同年11月3日、GHQは、朝鮮人および台湾省民を「できる限り解放国民として処遇する」と声明した。 このころ、渋谷宇田川町の闇市の一画に、華僑総本部が作られた。華僑総本部は、闇市に何軒かの飲食店を持った。その後、渋谷警察署署長・土田精(後の警視庁予備隊初代隊長)は、渋谷警察署署員に命じて、華僑総本部が闇市で販売している禁・統制品物資を没収し、不法建築家屋を取り壊した。すぐに、華僑総本部は、新たな闇物資が売買し始め、再び不法建築家屋を建てた。華僑総本部の多数の者が、集団で渋谷警察署に押しかけ、華僑に対する取締りを止めるように、激しく抗議した。それから、闇市を通った警察官に対する華僑総本部の者の集団暴行が、繰り返された。これを切っ掛けに渋谷事件が勃発した。 詳細は「渋谷事件」を参照 昭和22年(1947年)、高橋岩太郎は、恵比寿駅前の事務所で、渋谷警察署の刑事に、「高橋岩太郎の身柄は拘束しない」と云う条件で、渋谷事件で使用した14年式拳銃の任意提出を求められた。高橋岩太郎は、渋谷警察署の刑事の要求を拒否した。渋谷警察署の刑事は、毎日高橋岩太郎を説得に訪れた。2週間後、高橋岩太郎は、高橋の身柄を拘束しないと云う条件で、14年式拳銃の任意提出に応じた。3日後、高橋岩太郎は、渋谷駅前交番の巡査から、渋谷警察署に出頭するように、通知された。高橋岩太郎は、渋谷警察署に出頭し、司法主任の取調べを受けた。高橋岩太郎は、銃砲刀剣類等不法所持で起訴され、5日間拘留された後、釈放された。1ヵ月後、高橋岩太郎は検察庁に呼び出され、罰金刑を言い渡された。 同年、高橋岩太郎は、大竹仙太郎の伴で、銀座の賭場に行った。銀座の賭場で、大竹仙太郎と高橋岩太郎は、生井一家・篠原縫殿之輔(通称:銀座の殿様)に会った。1時間後、高橋岩太郎は、木挽町の待合で、大竹仙太郎と篠原縫殿之輔から、生井一家・森田政治(後の日本国粋会初代会長。通称:独眼竜の政)を紹介された。それから、高橋岩太郎と森田政治は兄弟分となった。 昭和25年(1950年)11月10日、大竹仙太郎が、新宿区の東京医科大学病院で、扁平上皮癌のため、死亡した。享年51。大竹仙太郎は、東京医科大学病院に入院中、生井一家・篠原縫殿之輔と小金井一家・渡辺国人を招き、落合一家の跡目を高橋岩太郎にするように、遺言していた。大竹仙太郎の葬儀は、渋谷代官山の高梁岩太郎の自宅で行われた。高橋岩太郎が施主を務めた(親の葬儀の施主を務める者が、跡目である)。森田政治も葬儀に参列した。 昭和26年(1951年)、高橋岩太郎は、落合一家六代目襲名の書状を、全国の関係者に送付した。
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