終戦後と一般公開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/06 09:10 UTC 版)
「三菱兵器住吉トンネル工場跡」の記事における「終戦後と一般公開」の解説
終戦後、トンネルは資材置場として活用され、一部のトンネルの出入口は塞がれた。 1982年(昭和57年)、長崎市議会にて岡正治議員が長崎市長にトンネル遺構の保存を提言。1993年(平成5年)頃からは一部の市民団体も市に保存の要望を続けていたが、周辺の土地所有権や崩落の危険性が問題となり公開は見送られていた。 2009年(平成21年)、長崎市は跡地上を走る市道の拡幅工事にともない、1・2号トンネルの住吉側周辺を買収。安全面に配慮して補強工事を施した上で、2010年(平成22年)3月30日より出入口付近に限り一般に公開された。 2012年(平成24年)9月より、1号トンネル内にて九一式魚雷の実物が展示されている。同魚雷は、戦時中西彼杵郡長与村(現在の長与町)内の三菱兵器工場で製造、1977年(昭和52年)の長与中学校改修時に敷地内から発見されたものである。その後、長与町が福済寺に寄贈、同所で展示していたが、住吉トンネル工場跡の整備に伴い長崎市に譲渡され、住吉トンネル工場跡内での保存が実現した。
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