終戦後の活動
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飛行教官として特攻要員を育成、多くの未来ある若者を死地に送り出した経験から、戦後は一貫して特攻戦死者に対する正しい理解を広めるため活動した。 特攻隊員たちの遺した「あとを頼みます、日本を良い国にして下さい」という言葉に従い、「誇りある日本をつくる会」を設立、また歴史小説の第一人者である山岡荘八の指導を受け、特攻にまつわる著作を刊行した。その際、自身も多くの特攻を見送った経験のある山岡から「特攻は崇高すぎて、私には書けない、君が一生かかっても書くべきだ」と言われた。 これまでの活動の集大成として特攻映画の制作を渡辺邦男(菊旗同志会主宰)と構想していたが、渡辺が1981年に死去したため一旦は挫折した。渡辺の死去から20数年後、水島総(後に日本文化チャンネル桜社長)の知遇を得たことにより構想は引き継がれた(著書『飛燕対グラマン』あとがきより)。 また、自衛隊の親睦団体「草の実会」を組織し、安倍源基を中心とする新日本協議会に参加もしたが、1960年に同会を脱退し、横田重左衛門(日本医科歯科大学教授)、大屋源幸(東南アジア研究所長)、日下藤吾、田中新一らとともに「全日本国民連盟」を結成した。
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