終戦後の気動車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 02:46 UTC 版)
終戦後もしばらくは燃料油の入手難は続き、気動車の運行は戦時中と同様、蒸気動車と代燃車により細々と続けられていた。燃料不足の慢性化から、1949-50年になっても遊休ガソリン動車を木炭車に改造した事例が記録されている。 ガス発生炉は非常に使い勝手の悪い代物で、搭載した気動車自体と、それを取り扱う運転士や保守担当者双方に著しい負担を強いた。このため、戦後の一時期には外見こそガス発生炉搭載の代燃車ながら、実際は統制外(ヤミ物資)ルートで密かに仕入れたガソリンでほとんど走行していたケースもあった。例えば国鉄は戦後の1946年3月、常磐線松戸 - 取手間にガソリンカーの運行を再開したが、その燃料は旧日本軍の本土決戦用備蓄ガソリンを入手して賄っていたという。そればかりか、沿線に米軍のキャンプや演習場が設営された江若鉄道のように、進駐軍の威光により代燃装置無しで堂々と特配のガソリンを使用していた例さえあった。 ただし、このような事例は少数に止まったようで、国鉄では1948年から既存のガソリンカーを、天然ガスを燃料とするガスカーに改造して一部線区で運行を始めている(キハ41200・キハ42200)。 また多くの非電化私鉄は燃料油の入手難に加え、戦後は石炭価格の高騰で蒸気機関車運用にも難渋した。この苦境を乗り切るため、1944年から1951年頃にかけて電化による電気動力転換を選択した例が少なからず存在する。石油・石炭燃料の高騰に比べれば、電力の供給事情はまだしも良好であったからである。 燃料油の入手難は統制外燃料の流通もあり次第に緩和の方向に向かっていたが、1950年には非電化私鉄への燃料油の配給が再開されたことにより、正規のルートでも燃料油の入手が可能になった。 また車輛の新製もこの頃から再開され、1950年から1951年にかけて各地の私鉄では、木炭ガスや天然ガスをディーゼルエンジンの吸気に混合するタイプの代燃気動車が新製されたことになっている。だがこれらは、監督省庁が代燃車しか新製を認めないという制約をくぐり抜けてディーゼルエンジン搭載の気動車を新製するための方便に過ぎず、これらの車両は代燃炉を装着していても最初からヤミルートなどで入手した軽油で運行されていたのが実情であった。国鉄においても1951年から新製車の製造を再開した(キハ41600 - 、翌年にはキハ42600 - )が、こちらは当初より正規のディーゼルカーとして竣工している。 各種の代用燃料気動車は、最終的には燃料事情が改善すると、多くがエンジンをディーゼルエンジンに載せ替えて、ディーゼルカーに再改造された。 蒸気動車については国鉄では1947年を最後に運転を取りやめ、私鉄における使用もほぼ同時期までで終了している。当時、日本の蒸気動車のすべては車齢30年かそれ以上を経過した老朽車ばかりで、戦時中の酷使も伴って機器類の痛みが激しく、加えて近江鉄道での例外的な鋼体化事例を除いてはすべて木造車であった。このため1947年以降も私鉄で運用された事例は、動力装置を取り外し、客車か電車付随車に改造されたものばかりである。
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