終戦時の体験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 20:09 UTC 版)
1945年(昭和20年)8月15日(水曜日)の第二次世界大戦終戦(日本の降伏)時、野村は18歳であった。戦争で苦痛な経験をして、終戦を知った後に自決(自殺)を考えたという。 当時、通学していた東京薬学専門学校女子部の教員から青酸カリをもらったのを(いつでも自決できるように)、自身の血液型と氏名を書いて縫い付けてあった胸ポケットに入れていた。昭和天皇によるラジオの玉音放送は、「ガガガいって、何て言ってるのか聞こえなかった」という。ただその後、薬専の教員が「諸君、いい時代が来た」と言った。その場にいた数人の生徒が「そんなひどいことを」と漏らした。そして、フラスコなど授業で使用していた器具などを屋上に持っていき、「死ぬならいいだろう」と壊していった。 その後、野村は(自決するために)皇居に向かった。その道中に、官庁で重要書類をドラム缶で焼却している様子などを目にした。二重橋の付近に辿り着くと、多くの人々が皇居の方向に正座して、履いている靴や下駄は脱いで盗まれないように前に置いて、頭を地面に伏せている様子を目にした。一番前に、サーベルを置いた軍人がいたが、数日後の新聞記事で自決したのを知った。その後、7~8人の同級生と目的地の上野駅を通り過ぎて日暮里駅に辿り着いた時に、電灯の明かりが灯しているのを見て、「あぁ、戦争が終わったんだ。」と終戦を実感したという(戦時中はアメリカ軍による空襲があり、電灯は使用禁止となっていた)。 その後、さよならも言わず同級生とも別れて、電車も動かないため徒歩で帰宅した。野村の父が経営する店舗は空襲で焼失してしまい、住居は借家であった。そして、野村の父が「おお、帰ってきたか」と言い、野村は「ただいま」と言った。すると、野村の母は「昭子のことだから、死んでると思ったの。お父さん、そう言ってたわ」と言ったという。 野村は自身の経験から、「私もやっぱり日本の中枢にいる方たちに、もうこんなバカな年とったおばあさんだけど、聞いてくださるなら私何日かかってでもそれはディスカッションしたいと思う。戦争をしてはいけない。みんな相当きれいな心でも、生き残るためには相当汚いことをするっていうことを言ってる。だから、そんな立派なことを言わなっくていいから、やっぱり死ぬ時に、私あんな悪いことしてしまった、あの人を裏切ってしまったという思いで死にたくないのだから、それはやってはいけない。」と語っている。 戦時中の自宅の防空壕は、電灯や七輪も備えて広さも8畳あるほどだったという。そこには、辞書も置いてあったという。これは女学校に通っていた時に、教員から「一生持てるような良い辞書を買いなさい」と言われたことがあったからだという。
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