終戦時の帰国状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 06:14 UTC 版)
「日本統治時代の朝鮮人徴用」の記事における「終戦時の帰国状況」の解説
韓国併合の翌年(1911年)、内地在留の朝鮮人は2527人にすぎなかったが、大正中期以後朝鮮における人口増加、鉱工業未発達等のため、低賃金労働者として日本内地に移住する者が増加した。1926年(昭和元年)の在留朝鮮人の人口は14万3798人であったが、1934年に53万7695人、1938年には79万9878人に増加した。さらに、第二次世界大戦中、徴用などの労務動員により著しく増加し、朝鮮で官斡旋による労務動員が開始された1942年には162万5054人に増加し、1945年の終戦時には200万人を超えていたとされている。終戦後、日本が連合国の占領下に置かれてから間もなく集団的な引揚げが開始され、1946年3月末までに一挙に約140万人が内地から南鮮(韓国)に引揚げた。次いで、日本政府は連合国軍総司令部(GHQ)の指令に基づき、1946年3月に残留朝鮮人全員約65万人について帰還希望者の有無を調査したが、その結果、朝鮮への帰還希望者は約50万人であった。しかし、朝鮮は北緯38度線を境に国土が二分され経済再建が思わしくなく、生活の見通しも立たないことから帰還した者は約8万人にすぎず、1950年に勃発した朝鮮戦争により引揚げは事実上終了した。韓国政府発表によれば、1949年末までに正式登録された引揚者数は141万4258人としている。北鮮(北朝鮮)への引揚げは、佐世保より1947年3月に233人、6月に118人、計351人が帰還した。1946年6月、連合国軍総司令部(GHQ)の覚書「日本への不法入国の抑制」により不法入国者の収容所が設けられ、以後1950年11月までに第二次世界大戦後の不法入国者約4万6000人が南鮮(韓国)に送還されている。1950年10月に出入国管理庁が設立され、1950年12月から日本の出入国管理法令に基づいて強制送還業務が実施されるようになり、これ以後1964年までに大村入国者収容所・川崎入国者収容所浜松分室に収容中の第二次世界大戦後の不法入国者や刑余者など2万2192人が韓国に強制送還された。1959年12月からは北朝鮮への帰還事業が実施され、1984年までに9万3340人(日本人、中国人、国内仮放免中の朝鮮人を含む)が北朝鮮に帰還している。法務省統計によれば、1952年から1964年までに帰化(日本国籍取得)した朝鮮人は3万3897人と記録されている。1964年4月1日現在、在留朝鮮人の総数は57万8572人であった。 朴慶植によれば、日本の敗戦によって強制労働させられていた朝鮮人労働者は先を争って帰国した。ノンフィクション作家の金賛汀は1945年8月15日を「強制連行、強制労働からの解放の日」であったとした。金はさらに「すべての朝鮮人強制連行者が、帰国を急いだ」が、「日本に進駐した米軍は朝鮮人の帰国を一時停止し、港に朝鮮人が集結することを禁止した。(中略)事態が混乱し、収拾が困難になるにしたがい、進駐米軍も、朝鮮人強制連行者を帰国させる以外にこの混乱を収拾する方法がないことを認め、彼らの帰国が再開された。」「強制連行者の多くは、この時期に帰国した」と書いている。金賛汀はまた、帰国する朝鮮人の未払い賃金を、朝鮮総連が各企業に請求して徴収したが、そのほとんどは労働者個人には渡らず、朝鮮総連の活動資金となり、また朝鮮総連から日本共産党にも渡された、と述べている。
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