戦後の本稿(決定稿)
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「サーカス (小説)」の記事における「戦後の本稿(決定稿)」の解説
1945年(昭和20年)3月の東京大空襲の後、5月から神奈川県高座郡大和の海軍高座工廠に勤労動員されていた三島は、8月に原因不明の頭痛と発熱に見舞われ一時帰宅し、一家が疎開していた豪徳寺の親戚の家で予後を過ごしていた最中の8月15日に終戦を迎えた。 三島は、戦争に熱狂していた国民が〈敬虔なる祈願を捨て〉て〈国家の勝利〉ばかりを声高に叫び、特攻隊の若者の比類を絶する〈人間性の発動〉の精神から目を逸らし、〈ジャアナリズムによつて様式化して安堵し、その効能を疑ひ、恰かも将棋の駒を動かすやうに〉新戦術的に〈明朗に謳歌〉し、〈戦術と称して〉特攻隊から〈神の座と称号を奪つた〉こと、〈冒瀆の語〉を放ったことなどを8月19日に記した(詳細は三島由紀夫#特攻隊についてを参照)。 その後、10月に妹・美津子が腸チフスで早世し悲嘆に暮れる中、戦時中に一度接吻を交わした恋人の三谷邦子(友人・三谷信の妹)が他の男性と婚約したことを11月頃に知り、自身の結婚への逡巡などを顧みた三島は複雑な思いに捉われた(詳細は三島由紀夫#終戦後の苦悶と焦燥を参照)。 この時期、〈荒涼たる空白感〉を抱え、〈死骸の生活〉を送っていた三島は、主婦になった邦子と翌1946年(昭和21年)9月に偶然に道で出くわし、その日のノートに今後に向けての文学的模索を記した。10年がかりで1,000枚分の〈自伝小説〉を書くことを構想した三島は、〈I. 自伝の方法論――五十枚〉〈II. 幼年時代――三百枚〉〈III. 少年時代――三百枚〉〈IV. 青年時代――三百五十枚〉のために、まずは〈幼年時代の資料整理に着手〉する決心をした。 自身の生い立ち、地下鉄の切符切りや粗野な落第生、絵本で見たジャンヌ・ダルクや〈殺される王子〉への偏愛など、自伝小説『仮面の告白』に繋がる性的テーマを描く構想を密かに考えていたと思われる三島は、そうした企図を秘めながらも各誌に短編を発表し、戦前に書いていた「サーカス」の初稿を見直し創作ノートを推敲した。初稿では、団長の〈至大な愛〉が思い描いた少年と少女の事故死は実行されていなかったが、結末に2人の死が据えられることになり、〈流竄の王子〉が殺されるモチーフに改稿された。 三島が東京帝国大学法学部を卒業し、大蔵省に入ろうとしていた1947年(昭和22年)12月頃には、新しい雑誌が〈星の数〉ほどあり、11月12日から14日にかけて執筆した決定稿の「サーカス」を発表した雑誌『進路』もそういった〈商業的制約から自由〉な小さな雑誌群の一つであった。三島はそれを〈純文学の手習ひ草紙〉と見たて〈商業主義〉への妥協の要らない〈わがままな小品〉を掲載できた。 そのころは、高級な評論、難解な小説を満載した新しい雑誌が星の数ほどもあつた。それがみんな売れてゐたわけではなく、雑誌は次々と潰れ、又生れたが、高度の観念主義がどの雑誌をも支配してゐて、従つてその創作欄も、あらゆる点で商業的制約から自由だつた。いはゆる中間小説が発生したのはずつとあとのことである。これを作家の側からいふと、いたるところに純文学の手習ひ草紙があつたわけで、商業主義への妥協などは一切考へる要がなかつた。『サーカス』はさういふ間隙にあらはれたわがままな小品である。 — 三島由紀夫「解説」 この決定稿では、初稿や創作ノートにあった少年と少女の汽車での逃走劇やキスシーンも無くなり、サーカスの火事の場面なども無くなって、構成的にも改稿されたものとなっている。なお、創作ノートでは、若い頃に探偵の手下だった団長が大興安嶺から横浜に向けて船で帰る前日に、南米に行くという年老いたサーカス団長から、〈二代目団長〉になってくれと言われる場面がある。
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