戦後の柔道界を牽引
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終戦後の1946年7月に6段位を允許。福岡県柔道協会の結成を記念して1947年7月1日に開催された西日本選手権大会では個人戦・団体戦に出場。個人戦の決勝リーグでは木村政彦6段(熊本)と吉松義彦6段(鹿児島)との三つ巴戦になり、木村には延長2回の末に判定で敗れ、吉松には延長戦で縦四方固に抑え込まれ一本負けを喫して優勝を逃すも(優勝は一本背負投で吉松を宙に舞わせた木村)、団体戦では福岡県の優勝に貢献した。 1948年3月15日に全関西・全九州対抗戦形式で行われた第2回新生大会では団体戦で強豪・広瀬巌7段と引き分け、個人戦では決勝戦にて木村政彦7段と激突。後述の通り両者激しい熱戦を展開したが引き分けに終わり、前年の雪辱はならなかった。1948年5月に開催された第1回全日本選手権大会では準決勝戦で吉松義彦6段を破り、決勝戦では武専の先輩にあたる伊藤徳治6段を延長3回の末に判定で破り優勝を飾って念願の“柔道日本一”に。大会直後の6月には国家地方警察福岡県本部へ奉職し、10月に平和台特設道場で行われた県下警察柔道大会では5人掛を実演、代わる代わる警察官の猛者5人を立て続けに豪快な大外刈で畳に叩き付けて観衆を驚嘆せしめた。11月13日に国家地方警察本部が主催した第1回全国警察大会では管区対抗戦で福岡管区の一員として出場し東京管区を相手に7対0の大勝を飾り、個人戦は決勝戦で国家地方警察鹿児島県本部の吉松義彦に敗れるも、九州勢の強さを見せ付けた。 翌49年3月に宮崎市で催された警察官の第3回九州各県対抗戦でも優勝。8月には第3回西日本各県対抗戦の6段の部で吉松義彦と引き分けた。福岡県は鹿児島県と決勝戦を争い3対0でこれを破り優勝を果たし、嘗て西文雄や島井安之助、須藤金作らが築き上げた柔道王国・福岡の復活を印象付けた。また同年11月の第2回全国警察選手権大会でも松本は個人優勝を果たしている。 檜舞台である全日本選手権大会には1953年の第6回大会まで続けて出場するも、1949年は初戦で伊藤徳治7段に、1950年は3回戦で石川隆彦7段に、1951年は3回戦で醍醐敏郎7段に、1952年は3回戦で山本博6段に、1953年は4回戦で吉松義彦7段にそれぞれ敗れ、2度目の栄冠はならず(このうち1952年は棄権負)。それでも1950年4月に鹿児島市で開催の全九州対県試合で福岡県を率いて優勝へ導き、11月の第3回全国警察大会では府県対抗戦で国家地方警察宮城県本部を6対1、国家地方警察大阪府本部を5対1で圧倒し、決勝戦でも警視庁を降して優勝。同大会の管区対抗戦でも優勝を成し遂げた。管区対抗は1951年11月の第3回大会も制し、国家地方警察福岡県本部の勇名をいよいよ全国に轟かせている。 その後、1956年4月29日の第1回世界選手権大会の代表決定戦に38歳で出場し、決勝戦で夏井昇吉と時間一杯20分を戦った末に判定で敗れて代表の座はならず。この試合を以って松本は選手を引退した。永い現役生活を送ったが、選手として最も脂ののる20歳代半ばの時代を戦争・兵役で迎えた事は、松本にとって不運であったと言える。
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