空対空・空対地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 01:29 UTC 版)
タ弾とは、ナチス・ドイツの成形炸薬弾に関する技術供与によって陸軍が開発した、空対空・空対地親子爆弾(クラスター爆弾)に内蔵された成形炸薬弾頭をもつ子弾の秘匿名称である。また海軍が開発した同様の爆弾の子弾もタ弾と呼ばれる。なお海軍には内部に焼夷薬の入った鋼管を多数内蔵した空対空・空対地用の三号爆弾(通称:タコ爆弾)や、通常の炸裂弾頭をもつ子弾を内蔵した二式六番二十一号爆弾二型なるものもあり、しばしばタ弾と混同されるが誤りである。 1942年(昭和17年)5月にドイツより成形炸薬弾の図面がもたらされた際、陸軍航空技術研究所の野田耕造少将は陸軍技術本部の部員と共に説明を受け、この小型強力弾を分散配置している航空機に対して多数投下すれば効果があると判断し、早速試作に取り掛かった。基本的な構造は、長方形の波形鋼板を包めて六角柱形に成形して両端に蓋をし、それをバックル付きのベルトで固定した収容筒(コンテナ)の内部に多数の成形炸薬弾頭をもつ弾丸(子弾)を内蔵するものだった。主に戦闘機の翼下に懸吊する形で使用され、目標へ向かって投下した直後に、機体に固定されたワイヤーの作用によりバックルが解除されてベルトが外れ、収容筒が分解して内蔵の弾丸を飛散させ広範囲の敵にダメージを与えるというものであった。 最初に製作したものは収容筒内部に弾丸として「タ一〇二」(弾頭径40mm、全長約26cm、弾量約310g、炸薬約110gの成形炸薬弾で、弾頭は二式擲弾器用の四十粍タ弾とほぼ共通であり、弾尾には安定翼と回転翼式の安全装置を有する信管がある)を76発内蔵した50kg弾で、制式名称は二式四十粍撒布弾である。投下試験では燃料タンクを燃焼させたり、翼に径40cmの穴を開けるなど大きな効果があった。その後も投下試験を繰り返したが、いずれも良好な成績を残したため、新たに「タ一〇二」を30発内蔵した30kg弾の三式四十粍撒布弾も製造した。1942年(昭和17年)9月には試製投下タ弾100,000発および同収容筒1,500個を調弁するよう指示されている。1943年(昭和18年)1月11日、参謀本部はB-17応急対策の一環として、第八方面軍に対し戦闘機用タ弾の整備およびタ弾懸吊装置の整備・発送を15日までに30機分行うよう通達した。また、同月に陸軍航空審査部は明野陸軍飛行学校と協力して、飛行中の編隊に対するタ弾の投下法の研究を行なったが、「タ弾の落下速度が遅いため、編隊前方で投下する時機の判定が難しく、効果がない」との判決を下している。 一方海軍は1942年(昭和17年)7月に飛行場攻撃用のクラスター爆弾について言及している。1943年(昭和18年)1月に弾子(子弾)を30発内蔵した60kg弾を製造し、同年6月までに実験を終了する予定であった。本弾は円筒形の弾体(コンテナ)内部に弾子(弾頭径約45mm、全長約44.5cm、弾量約1kg、炸薬約310gの成形炸薬弾で、弾尾には安定翼と風車式の安全装置を有する信管がある)を40発内蔵した60kg弾で、制式名称は二式六番二十一号爆弾一型(同年10月6日に制式採用)である。弾体頭部には三式点火装置一型と少量の黒色火薬が詰められており、投下して約5秒後に風車式の安全装置が解除されて黒色火薬に点火し弾体頭部が吹き飛ぶ。その際弾体頭部に固定されたワイヤーの作用によりバックルが解除されてベルトが外れ、弾体が分解して内蔵の弾子を飛散させる。同年8月にはラバウル基地に685発の二式六番二十一号爆弾が存在していた。 使用にあたっては、的確な位置に投下することさえできれば非常に有用な兵器であるが、近接信管を開発できなかった日本では、敵機の未来位置や弾道を予測した上で投下のタイミングを判断し、自機を目標上空で機体高度・速度等一定に保たなければならないため、操縦者は高い技術を要求された。 主に対爆撃機編隊・対基地・対地上部隊の攻撃用に用いられ、陸軍では主にニューギニア戦線・フィリピン戦線・ビルマ戦線・中国戦線・満州等で使用し、海軍では主にフィリピン・ラバウル方面やレイテ海戦等で使用した。 空対空において使用する場合は敵機の上方1,000m程度の位置を占位することが必須条件となるが、レーダーや照準器を使うわけではなく、勘に頼って投下する爆弾なだけにただでさえ攻撃を成功させることが難しい上、特にB-29が相手だと機体の能力差で上方占位が極めて困難であり、爆撃機が護衛戦闘機を引き連れてくるようになるとそれはさらに困難となり、投下以前の問題であるとして兵器自体の有効性に疑問が持たれ、徐々に使用されなくなっていった。 反面、空対地(飛行場や車両部隊襲撃)では散布界の広いタ弾は効果的な兵器であり、終戦まで各方面の第一線で少なくない数が効果的に使用された。例としてビルマの戦いでは、飛行第64戦隊の戦隊長を務めた宮辺英夫少佐操縦の一式戦「隼」が、連合軍飛行場に対し夜間奇襲攻撃を敢行し地上駐機中の大型機複数撃破の戦果を報告。ソ連対日参戦下の満州では、1945年(昭和20年)8月12日、15日に、飛行第104戦隊の四式戦闘機「疾風」と独立飛行第25中隊の二式複座戦闘機「屠龍」がソ連赤軍機甲部隊に対しタ弾攻撃を敢行、戦車やトラックなど数十輌を破壊・炎上させる戦果を挙げている。
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