短波研究を学会発表
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「グリエルモ・マルコーニ」の記事における「短波研究を学会発表」の解説
マルコーニは前述したサウスウォールド(英国)とザンドヴォールト(オランダ)間の海上200kmを結ぶ北海横断回線(3MHz帯の2波を使う同時通話式無線電話)の無線施設をプレスや電波関係者に広く公開しており、逓信省工務課の佐伯美津留と穴沢忠平もパリ技術準備委員会(1921年6月21日~8月22日)の帰りにサウスウォールドでこれを見学し、日本の電信電話学会で報告している。その後この北海横断回線は、ロンドンとサウスウォールド間およびザンドヴォールトとアムステルダム間の陸線と相互接続され、1921年12月18日にロンドン・アムステルダム間の有線・無線式国際電話の公開デモンストレーションで大成功を収めた。 マルコーニが手掛けたこれ以外の短波開拓についてはそれまで非公開だったが、1922年5月3日にまずフランクリン技師がロンドンで開かれた英国電気学会(英語版)(IEE)において、1916年よりマルコーニとはじめたパラボラビーム実験の数々とその成果を発表した。 英国電気学会でのフランクリンの発表 (1922年5月3日)時場所, 最大通信距離実験内容使用周波数, 方式1916年夏 リヴォルノ沿岸(イタリア), 10km パラボラビームアンテナの試験 150MHzと100MHz, 火花式 1917年 カーナボン近郊(英国), 32km パラボラビームアンテナの試験 100MHz, 火花式 1919年 カーナボン・ホーリーヘッド間(英国), 32km 真空管式無線電話の試験 20MHz, 真空管式 1920年6月 アイリッシュ海横断試験(英国・アイルランド), 130km 見通し外伝搬の試験 20MHz, 真空管式 1920年 フォース湾インチケイス島周辺海域(英国), 13km 回転式パラボラビームによる電波灯台 75MHz, 火花式 1921年2月 ヘンドン近郊(英国), 106km パラボラビーム局と自動車による陸上移動試験 20MHz, 真空管式 1921年8月 ヘンドン・バーミンガム間(英国), 156km パラボラビーム局同士による同時通話式無線電話 20MHz, 真空管式 なお無線学会(IRE)はフランクリン技師に対し、短波パラボラアンテナの使用周波数に対する開口長とビームパターンの関係などを明らかにした功績を称え、1922年度のモーリス・リーブマン記念賞(Morris Liebmann Memorial Prize)を、『For his investigations of short wave directional transmission and reception.』として贈っている。 ついで1922年6月20日、渡米したマルコーニがニューヨークで開かれたアメリカ電気学会(AIEE)と無線学会(IRE)が共催する講演会において、短波のビーム式通信について発表した。1160名の聴衆を前にし、マルコーニは1896年9月、ソールズベリー平原でパラボラビームアンテナを使い2.8kmの通信に成功した話から、ヘンドン・バーミンガム間のビーム試験回線や、最近完成したばかりのインチケイス島のメリーゴーラウンドのような新型ツインビーム式電波灯台の仕組みを詳細に説明したのである。 さらに大盛況の会場では電波サーチライト(Radio Searchlights)と称して、波長1m(300MHz)のパラボラビームシステムのデモンストレーションが行われた。回転台に載せられた300MHzパラボラ式送信機を、300MHz受信機が置かれたテーブルの前で受信アンテナを手にして立っているマルコーニに対して向けた時だけ受信機が反応すると会場からどよめきが起きた。 マルコーニは聴衆に短波の有効性と将来性について熱く語った。 “短波の研究は、これまでの無線の歴史のなかで不幸にして無視されてきたとはいえ、今後想像以上に多方面での発展と新分野の研究成果が期待できると、私は確信しています。故に、特にこの点にご注目いただきたいのです。” さらにレーダーの原理にも言及したのである。 “講演の終わりに電波のもう一つ別の利用の可能性 - 実現の暁には航海者にとって計り知れない価値を持つでしょう - を指摘しておきます。ヘルツが最初に証明したように、電波は導体によって完全に反射できます。私のいくつかの実験でも電波の反射効果および数マイルも離れた場所の金属物質によって電波が屈折することに注目しました。船にビームをどの方向にでも放射、あるいは照射できるような装置を船に作ることは、私は可能だと思っております。このビームが例えば船のような金属製の障害物に遭遇した場合、受信機にその障害物が投影されるでしょう。これにより、船にたとえ無線装置が配備されていない場合でも、霧や悪天候下で直ちに他船の存在、位置がわかるのです。” 講演会は大盛況で新聞各紙や多くの無線雑誌がマルコーニのビーム通信を大きくとりあげた。日本では東京朝日新聞がこれを報じている。 しかし第一次世界大戦で海底ケーブルだと敵国に切断されることが実証されて以来、世界は有線から大電力長波無線へ舵を切ったばかりで、マルコーニが熱弁を振るった「短波」が研究機関、無線機メーカ、そして電波主管庁の関係者たちの心を動かすまでには至らなかった。同じく米国のアマチュア無線家も「短波」には反応しなかった。1922年2月27日から3月2日、フーバー商務長官が召集した第一回国内無線会議(First United States National Radio Conference)において、アマチュア用に1,091kHzから2,000kHzの周波数帯域を分配する勧告が採択された直後だったからだ。念願の低い周波数が手に入る可能性が出てきたため、アマチュアの関心事は1,500kHz未満の周波数に集っていたのである。 短波による放送中継業務を研究していたウェスティングハウス電気製造会社のラジオ局KDKAの技術者フランク・コンラッドをのぞき、長波全盛のこの時代にあって、マルコーニの言葉に注目するものは現れなかった。マルコーニは通信試験により短波の有効性を証明するしかないと考えた。そして1901年に中波で大西洋横断通信を成功させたポルドゥー海岸局(呼出符号MPD)を閉鎖し、ここに高さ325フィート(99m)もある4本の木柱マストより吊り下げられた巨大パラボラビーム(波長97m、周波数3.1MHz)を建設することを決めたのが1922年夏だった。
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