相次ぐ不運・病気と怪我
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 06:40 UTC 版)
1989年5月場所は、横綱・北勝海と大関・旭富士と3人での優勝争いは千秋楽までもつれた。12勝2敗で迎えた北勝海との千秋楽結びの一番(勝った方が旭富士との優勝決定戦に進出)では肩透かしに敗れたが、その寸前に大乃国の突き落としで北勝海の右手が土俵の上を掃いたのでは?と見られる場面があった(VTRではその光景がはっきり映し出されている)。ところが、立行司と勝負審判5人いずれもこの「はき手」に気付かず、さらに物言いもつかなかったため、不幸にも大乃国の黒星となった(優勝決定戦は北勝海が旭富士を送り出して勝利)。この一番について、当時協会の審判部長だった九重(元横綱・北の富士)は「審判委員五人の目で見ており、もしはき手があればだれもが物言いをつけるはず。テレビはカメラの角度により実際と違うシーンが出るもの」と話し判定の正当性を主張している。 同年7月場所では場所前から痛めていた右膝が悪化、1勝4敗で5日目から途中休場。日本大学医学部附属板橋病院に入院、右膝の治療と同時に全身の問診を受けた結果、医師から初めて「睡眠時無呼吸症候群」という診断を受け、横綱昇進時から表れていた体調不良の真相を知った。睡眠時に一時間あたり60回呼吸が止まる程の重病であり、心不全による突然死も時間の問題であり、診断の直後に治療用の呼吸器を使用開始した。入院加療ののち病気の症状は回復して退院するも完治せず、横綱として2年近くも低迷することとなる。 同年9月場所も不調で4日目で1勝3敗、その後一旦は持ち直して11日目で7勝4敗としたが、そこから連敗を喫し14日目の千代の富士戦で7勝7敗、勝ち越しをかけた千秋楽結びの一番の北勝海戦でも敗北したことで、ついに7勝8敗と負け越した。横綱が皆勤しての負け越しは史上5人目(6例目)、しかも15日制が定着してからは初めての不名誉な記録だった。一旦は引退届を提出するも、当時の二子山理事長(第45代横綱・初代若乃花)からは「まだ若いんだから初心に帰った気持ちでもう一度やり直せ。汚名を残したまま辞めてはいかん」と慰留されて現役を続行する。なお大乃国本人はこの不名誉に対して、不調の際は休場するという横綱の固定観念に囚われず、不成績を恐れず全力で戦ってこそ横綱であると思いの丈を明かしており、大乃国としては「自分の力をこの世界でどこまで出せるかを試したい」という入門当初の志に従った結果であるという。 一場所休場した後の1990年1月場所で進退を懸けるも、11日目で8勝3敗と勝ち越したが、翌12日目から終盤4連敗で8勝7敗。さらに千秋楽の千代の富士戦では左足首の靱帯を断裂、その上骨折という大怪我を負う悲惨な結末となり、その故障が長引き4場所も連続全休した。この頃に前述の呼吸器を使用した影響で体が顕著にしぼみ、放駒からは不審に思われたという。その呼吸器を使用している様子を実際に確認した放駒は「そんな変な器具を使ってはダメだ。勝てなければ夜眠れないのは当然だ」と叱咤したため、大乃国は放駒を連れて病院の医師に事情を説明させた。すると放駒は「お前、病気だったのか」と納得し、その後は放駒の理解を得た上で治療に励んだ。同年11月場所で復帰するが序盤で平幕に負けるなど2敗を喫し、相撲振りは決して良くなかったが、千秋楽に前日優勝を決めた千代の富士に土をつけ、何とか10勝5敗の二桁勝利を挙げて引退の危機を免れた。大乃国は当時の週刊誌報道などで真面目横綱として知られていたせいか、報道陣も大乃国に対して非難する声は強くなく、日本経済新聞の夕刊コラムでは森鷗外が訳したヨハン・アウグスト・ストリンドベリの「苦痛は人を清める。悲哀は人を高める」という言葉を引用し、「たかが相撲じゃないか。まだ28歳になったばかりの青年だ。相撲ばかりが人生じゃないが、大乃国はわき目もふらず土俵人生の再起を目指す。再起の成否はまだわからないが、彼は一回り大きな人間に成長するにちがいない。」と掲載されるなど、苦しい土俵を続ける横綱の復活を見守る雰囲気があったと中野翠は文藝春秋に書いている。 1991年1月場所も10勝5敗に留まったが、必死に取り組む姿に声援を送るファンも多く、オール讀物の特集では井上ひさし、石堂淑朗、畑山博、保坂正康、黒鉄ヒロシが、「大乃国はプレハブ住宅を組み立てる建設作業者とは異なった、手作りの家を建てようとする職人のようなもの。」、「病や怪我でなかなか勝てなくても必死に取り組んでいる君の不器用な相撲人生を、己が人生と重ね合わせて記憶の底に焼きつけて声援を送っている者も多い。」などと寄稿した。同年3月場所での大乃国は1989年5月以来11場所振りに千秋楽まで優勝を争い、ようやく復活の兆しを見せたかに思えた。14日目に12勝1敗同士の直接対決で、北勝海は大乃国に寄り倒しで勝ったがその際に膝を負傷。翌日の千秋楽北勝海はまともに戦える状態でなく、もし大乃国との優勝決定戦になった場合、北勝海はどうやって戦うかずっと悩んでいたという。しかし北勝海の故障に全然気が付かなかった大乃国は、前日まで4勝10敗と極度の不振だった霧島に大相撲の末よもやの敗北で12勝3敗、またもあと一歩で北勝海(結びの一番で旭富士に敗れて13勝)に優勝を奪われた。今度こそ優勝をと雪辱を期すはずだった同年5月場所は、不運にも場所前に蜂窩織炎による高熱と右膝関節を痛めて急遽入院することになり、ふたたび全休となった。
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