白根金山発見伝説とは? わかりやすく解説

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白根金山発見伝説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/27 00:19 UTC 版)

白根金山」の記事における「白根金山発見伝説」の解説

祐清私記』の「鹿角金山はじまりの事」では白根金山発見まつわる伝説記されている。他書によると慶長3年1598年春に秋田実季支配した領地との境を検分するために、南部藩北十左衛門派遣した盛岡藩命令によって秋田との国境検分するため、北十左衛門鹿角郡向かった白根付近に宿泊していたところ、その周辺百姓たちが奉行面会しようと、手に手に贈り物持って奉行宿泊している宿に群をなした。その中の年のころ70余り老婦が幼い男子2人連れて左衛門前に来た。彼女が涙を流して言うことには、この兄弟太郎子・次郎と言って私の孫です。彼らの両親数年前死んで彼らは孤児となったので、私が育ててやっとここまで成長させることができました先祖伝来田地母方伯父託したものの、貸す約束年月を少しも守らないので、年寄りの力でやっとのことで今までようやく彼らを育ててきました。私の命は明日も知れないけれど、私が死んだ伯父の心も分からないので、兄弟路頭迷わないように私が生きているうちに何とか田地取り返して兄弟分け与えた思いますひとえに、このことをお願いしたい思いますくわしく周りの人もこのことを知ってほしいと前後並んでいる人々向かって言い、側にいる役人招いて今回面会に何か持ってこようと思いましたが、私は貧乏なので恥かしながらこれは孫どもと一緒に心を尽くして作ったものですと献上した。彼女はさらに一包み書物取り出し奉行見せた。十左衛門不審思い包みをほどいて見れば田地安堵証文であった。彼らの先祖将監と言う者が長牛での戦闘戦功があったと書かれ、藩主からの感謝状には趣旨として特別に何石のうちどれだけ永代無税耕作ができるとの永禄年間1558年-1570年)の証文があった。その外、いろいろな書付があった。彼女ら近郷指導者の子孫だと確かに思える即座に住民尋ねると老婦が言う話と全く同じなので、皆の見廻りでそれが確認できたならすぐ判決を下すだろうと言い本当に不便だっただろうと老婦を家に帰したその後兄弟伯父招いて詳細聞くありのまま白状した。そこで、押領された田畑をすべて兄弟返し、そのうえ罰金3両を渡して自分たちの住居に住まわせた。さてその後、十左衛門老婦進呈した包み物不審思って役人持って来るように言いそれを見るとそれは長さ4尺(1.2m)程度トロロ芋であった。その美しいこと奥のよりも優れているように見えたので数本選び出してお屋形様送ろうとしてよく見ると、くっついている赤土中にのように光る砂があった。不思議に思って鉢に入れて洗うと、だと見えたのは全部砂金であった。十左衛門は大変驚いて、さては彼女が、訴訟早く終わらせようと私に賄賂としての土に金を入たのではないか考え、とにかく彼女を呼んで返そう思った。十左衛門いやいやこの辺に金が有る山から掘っただろう、あれほど貧乏な女だから、こんな行動は思いもしないだろう、とにかく呼んで尋ねよう思い返し、彼女を招いてご馳走をして尋ねた老婦は昔からここに砂金があると聞き伝えていたが、掘る方法知りませんし、噂だけで今まで見たこともありません。伝聞上代のことでしょう。ここへ都から人が来たときに金がある山を知りその時国主内談し砂金数千斤を得たいいます。その年の地方の税として御所差し上げると、幸いその年は奈良の大仏造営の頃だったので、その金の泥を使って大仏彩色したと言いますその後も金を掘っていましたが、国主阿倍氏とやらが亡くなった時から一切すべて途絶えてしまったという話です。大昔の事なのでただの物語でしょう。また私の祖父言い伝えでは、あの山の奥に子供が朝に草刈り行きましたが、草の葉一面金色の露が上がって来て、その光が目を遮り覚えず倒伏しかけました。少したって気を取り直して見ると、もう光るもの消え失せて、ようやく人心地付いたので家に帰りました子供の親たちが不思議に思って、その草の上にある露を払った所それは全部金色の砂粉でした。これが金というものだと、上方売って数十貫の銭と交換して多く田畑買い求め大富豪となりましたその子孫私たちです。その後近郷人々うらやんで尋ねて来ても、二度と同じよう不思議なことは起こりませんでした最近まで出羽国秋田藩)から時々旅人来てにすると言いこの辺の土を取って行った世間の人が言ってます。これ以外何も知っていることはありませんと語った。十左衛門考えすぎ年月消費して仕方ないと、その老婆の家に行って世間話をしてから老婆先に立ててを掘る所を見よう後ろの山へ行った全部砂金だったので十左衛門大喜び老婦に向って言うことには、その方山の芋の味は尋常ではないまた、土地模様特別だ今後はこの山を私にもらいたい代償望み次第言ってほしいと言い数十貫の銭を与えると老婦は大変喜んでこれに従った。十左衛門はその山を「姥がふところ」と名付けて、日々夜々掘って、その土を俵に入れて奉行所納め置いた住民たちは何の考えもなくこれを好きな殿だと考え献上しよう、これは安い贈り物だと思いながら毎日持って来ると、奉行所には芋の山積み重なったそのこと数日の間に世間取り沙汰となったので、金山秘密がさらに伝わらないようになり十左衛門大い喜んだ。藩境の見分終わり役人はさっそく帰って見分のことを報告した。十左衛門はその地に残りこの地を私に任せ統治させるようにしてほしと言った。遠い場所で長年勤め不便だとして、自分の子息の十だけを清水屋敷に残し、妻を始め鹿角引っ越してその地に居ながら金山奉行した。 とされている。実際1699年元禄12年)に鹿角に「姥が懐金山」というのを土地山師稼業したことが記録見える。また、尾去沢鉱山には帯刀屋敷という十左衛門住居の跡と言い伝えられる場所があり、白根金山文政年間1818年-1831年)の絵図にも帯刀屋敷があったことが確認できる。しかし、金山発見由縁は他の鉱山にも同型のものが伝えられており、一つ伝説見るべきである。たとえば、『佐渡風土記』における西三川金山では、ニラの根についていた砂金から金山開発する物語伝えられており、さらに大仏塗金まで伝承遡るのは全国金山見られる伝承である。 北十左衛門1614年慶長19年)、おびただしい黄金武器豊臣秀頼献じ大坂の陣において大阪方に走ったという。十左衛門大阪参陣のために鹿角を去るときに、鉱山従事者捕らえて生き埋めにしたとの伝説がある。1763年宝暦13年)の白根金山の山先の青山氏の『青山先祖聞書』にはその伝承が記されていて、元禄初年の頃にその跡を捜索した者がいたが見当たらなかったとも伝えられるこのような説話気仙閉伊郡地方に伝わる金山衰亡伝説にも同様に伝わっている。 この他に、民話でも鉱山発見説話語られている。石野集落では「他国から来た旅人をある宿に、泊めてもらったところ、宿の人が小真木からとってきた焚いて旅人もてなしたところ、そのオキネバネバしたもの付いていた。その旅人びっくりして、その山を調べと金であった」という話が語られている。大欠集落では「昔、あるなまけものが、今の山神社のある所で、火を焚いて昼食食べてひと眠りをしていた。目をさまして火を焚いた所を見ると、何かが固まっていた。よく見るとそれは金の塊であった」という話が語られている。 白根金山古い記録は、白根金山の山先の地位長く許され青山左衛門家の家伝青山氏関係史料大湯共同研究編集の『白根談叢』や『青山家白根史蹟』、『青山家史料』、『青山家事蹟』など)に詳しい。白根金山発見され時期1598年慶長3年)というのは、この史料よる。金山発見が関わっているというのは、長者伝承がおりこまれており、ほとんど同類の話が豊前国呼野金山発見にも伝われている。また、姥が懐金山尾去沢鉱山にもある。十左衛門金堀百人余を殺害したという話も、『青山先祖聞書之事』では西通金山においての事件として記されている。小葉田淳は、白根金山開鉱された年代諸記録総合すると、慶長3年説よりも同10年頃に開かれたか、同3年発見され10年頃に盛山になり同13年ごろより一段と繁栄したものと考えられるとしている。

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