白根金山発見伝説
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『祐清私記』の「鹿角金山はじまりの事」では白根金山発見にまつわる伝説が記されている。他書によると慶長3年(1598年)春に秋田実季が支配した領地との境を検分するために、南部藩は北十左衛門を派遣した。 盛岡藩の命令によって秋田との国境を検分するため、北十左衛門は鹿角郡に向かった。白根付近に宿泊していたところ、その周辺の百姓たちが奉行に面会しようと、手に手に贈り物を持って奉行が宿泊している宿に群をなした。その中の年のころ70余りの老婦が幼い男子2人を連れて十左衛門の前に来た。彼女が涙を流して言うことには、この兄弟は太郎子・次郎子と言って私の孫です。彼らの両親は数年前に死んで彼らは孤児となったので、私が育ててやっとここまで成長させることができました。先祖伝来の田地を母方の伯父に託したものの、貸す約束の年月を少しも守らないので、年寄りの力でやっとのことで今までようやく彼らを育ててきました。私の命は明日も知れないけれど、私が死んだ後伯父の心も分からないので、兄弟が路頭に迷わないように私が生きているうちに何とか田地を取り返して兄弟に分け与えたく思います。ひとえに、このことをお願いしたいと思います。くわしく周りの人もこのことを知ってほしいと前後に並んでいる人々に向かって言い、側にいる役人を招いて、今回の面会に何か持ってこようと思いましたが、私は貧乏なので恥かしながらこれは孫どもと一緒に心を尽くして作ったものですと芋を献上した。彼女はさらに一包みの書物を取り出し奉行に見せた。十左衛門は不審に思い、包みをほどいて見れば田地安堵の証文であった。彼らの先祖の将監と言う者が長牛での戦闘で戦功があったと書かれ、藩主からの感謝状には趣旨として特別に何石のうちどれだけ永代無税の耕作ができるとの永禄年間(1558年-1570年)の証文があった。その外、いろいろな書付があった。彼女らは近郷の指導者の子孫だと確かに思える。即座に住民に尋ねると老婦が言う話と全く同じなので、皆の見廻りでそれが確認できたならすぐ判決を下すだろうと言い、本当に不便だっただろうと老婦を家に帰した。その後、兄弟の伯父を招いて詳細を聞くとありのままに白状した。そこで、押領された田畑をすべて兄弟へ返し、そのうえ罰金3両を渡して自分たちの住居に住まわせた。さてその後、十左衛門が老婦が進呈した包み物を不審に思って役人に持って来るように言いそれを見るとそれは長さ4尺(1.2m)程度のトロロ芋であった。その美しいこと奥の芋よりも優れているように見えたので数本選び出して、お屋形様へ送ろうとしてよく見ると、芋にくっついている赤土の中に銅のように光る砂があった。不思議に思って鉢に入れて洗うと、銅だと見えたのは全部砂金であった。十左衛門は大変驚いて、さては彼女が、訴訟を早く終わらせようと私に賄賂として芋の土に金を入たのではないかと考え、とにかく彼女を呼んで芋を返そうと思った。十左衛門はいやいや、この辺に金が有る山から掘った芋だろう、あれほど貧乏な女だから、こんな行動は思いもしないだろう、とにかく呼んで尋ねようと思い返し、彼女を招いてご馳走をして尋ねた。老婦は昔からここに砂金があると聞き伝えていたが、掘る方法も知りませんし、噂だけで今まで見たこともありません。伝聞は上代のことでしょう。ここへ都から人が来たときに金がある山を知り、その時国主と内談して砂金を数千斤を得たといいます。その年の地方の税として御所へ差し上げると、幸いその年は奈良の大仏が造営の頃だったので、その金の泥を使って大仏を彩色したと言います。その後も金を掘っていましたが、国主の阿倍氏とやらが亡くなった時から一切すべて途絶えてしまったという話です。大昔の事なのでただの物語でしょう。また私の祖父の言い伝えでは、あの山の奥に子供が朝に草刈りに行きましたが、草の葉に一面金色の露が上がって来て、その光が目を遮り覚えず倒伏しかけました。少したって気を取り直して見ると、もう光るものも消え失せて、ようやく人心地付いたので家に帰りました。子供の親たちが不思議に思って、その草の上にある露を払った所それは全部金色の砂粉でした。これが金というものだと、上方へ売って数十貫の銭と交換して、多くの田畑を買い求め大富豪となりました。その子孫が私たちです。その後、近郷の人々がうらやんで尋ねて来ても、二度と同じような不思議なことは起こりませんでした。最近まで出羽国(秋田藩)から時々旅人が来て、薬にすると言いこの辺の土を取って行ったと世間の人が言っています。これ以外何も知っていることはありませんと語った。十左衛門は考えすぎて年月を消費しても仕方ないと、その老婆の家に行って、世間話をしてから老婆を先に立てて、芋を掘る所を見ようと後ろの山へ行った。全部砂金だったので十左衛門は大喜び。老婦に向って言うことには、その方の山の芋の味は尋常ではない。また、土地の模様は特別だ、今後はこの山を私にもらいたい。代償は望み次第言ってほしいと言い、数十貫の銭を与えると老婦は大変喜んでこれに従った。十左衛門はその山を「姥がふところ」と名付けて、日々夜々に芋を掘って、その土を俵に入れて奉行所へ納め置いた。住民たちは何の考えもなくこれを芋好きな殿だと考え芋を献上しよう、これは安い贈り物だと思いながら毎日芋を持って来ると、奉行所には芋の山が積み重なった。そのことが数日の間に世間で取り沙汰となったので、金山の秘密がさらに伝わらないようになり十左衛門は大いに喜んだ。藩境の見分が終わり役人はさっそく帰って見分のことを報告した。十左衛門はその地に残りこの地を私に任せ統治させるようにしてほしいと言った。遠い場所で長年の勤めが不便だとして、自分の子息の十蔵だけを清水屋敷に残し、妻を始め鹿角へ引っ越してその地に居ながら金山を奉行した。 とされている。実際1699年(元禄12年)に鹿角に「姥が懐金山」というのを土地の山師が稼業したことが記録に見える。また、尾去沢鉱山には帯刀屋敷という十左衛門の住居の跡と言い伝えられる場所があり、白根金山の文政年間(1818年-1831年)の絵図にも帯刀屋敷があったことが確認できる。しかし、金山発見の由縁は他の鉱山にも同型のものが伝えられており、一つの伝説と見るべきである。たとえば、『佐渡風土記』における西三川金山では、ニラの根についていた砂金から金山を開発する物語が伝えられており、さらに大仏の塗金まで伝承を遡るのは全国の金山に見られる伝承である。 北十左衛門は1614年(慶長19年)、おびただしい黄金と武器を豊臣秀頼に献じて大坂の陣において大阪方に走ったという。十左衛門が大阪参陣のために鹿角を去るときに、鉱山従事者を捕らえて生き埋めにしたとの伝説がある。1763年(宝暦13年)の白根金山の山先の青山氏の『青山先祖聞書』にはその伝承が記されていて、元禄初年の頃にその跡を捜索した者がいたが見当たらなかったとも伝えられる。このような説話も気仙、閉伊郡地方に伝わる金山衰亡の伝説にも同様に伝わっている。 この他に、民話でも鉱山発見説話は語られている。石野集落では「他国から来た旅人をある宿に、泊めてもらったところ、宿の人が小真木からとってきた柴を焚いて旅人をもてなしたところ、そのオキにネバネバとしたものが付いていた。その旅人はびっくりして、その山を調べると金山であった」という話が語られている。大欠集落では「昔、あるなまけものが、今の山神社のある所で、火を焚いて昼食を食べて、ひと眠りをしていた。目をさまして火を焚いた所を見ると、何かが固まっていた。よく見るとそれは金の塊であった」という話が語られている。 白根金山の古い記録は、白根金山の山先の地位を長く許された青山庄左衛門家の家伝の青山氏関係史料(大湯共同研究会編集の『白根談叢』や『青山家白根史蹟』、『青山家雑史料』、『青山家系事蹟』など)に詳しい。白根金山が発見された時期が1598年(慶長3年)というのは、この史料による。金山の発見に芋が関わっているというのは、芋掘長者の伝承がおりこまれており、ほとんど同類の話が豊前国の呼野金山の発見にも伝われている。また、姥が懐金山は尾去沢鉱山にもある。十左衛門が金堀百人余を殺害したという話も、『青山先祖聞書之事』では西通金山においての事件として記されている。小葉田淳は、白根金山が開鉱された年代は諸記録を総合すると、慶長3年説よりも同10年頃に開かれたか、同3年に発見され同10年頃に盛山になり同13年ごろより一段と繁栄したものと考えられるとしている。
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