生い立ち・詩作とは? わかりやすく解説

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生い立ち・詩作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 04:18 UTC 版)

ポール・ヴァレリー」の記事における「生い立ち・詩作」の解説

1871年地中海沿岸エロー県港町セット生まれる。バルテレミーコルシカ島バスティア生まれの税官吏で、祖先コルシカ島船乗り。母ファニートリエステ生まれで、この町駐在イタリア領事令嬢だった。5歳ドミニコ会学校入学7歳セット初等学校入学11歳高等科進学少年期読書好んだ1884年モンペリエ移住し同地リセ入学祖父のような船乗り憧れたが、父の反対数学不得手なために挫折した。またしばしば母方郷里ジェノヴァでの滞在楽しんだこの頃から文学関心持ち始め詩を書き始め、また絵画建築にも興味持った1887年3月、父バルテレミー死去1888年モンペリエ大学法学部入学ポーボードレールの詩に熱中した。それから象徴主義高踏派詩人たちを知り1889年頃、ユイスマンスの『さかしま』を耽読し、そこに引用されていたヴェルレーヌランボーや、マラルメ未完の詩『エロディヤード』の断片魅せられる18歳時に書いた詩「夢(Rève)」を兄がマルセイユ雑誌Revue maritime』誌に送り初め作品掲載され続いて『クーリエ・リーブル』誌に送ったソネット月の出(Elévation de la lune)」が掲載された。この年志願兵としてモンペリエ歩兵第122連隊1年間兵役に就く。 1890年5月モンペリエ大学創立600年記念祝賀で、パリからやってきた詩人ピエール・ルイス知り合い親交深めるルイスヴァレリーとの文通のなかでマラルメの『エロディヤード』の詩を30行ほどを書き送りヴァレリー感激させる1890年9月頃)。12月ルイス通してアンドレ・ジッドとも知り合い終生その友情関係を結ぶ。またこの頃マラルメ手紙書き送り返事もらっている。1891年頃、詩作活発になり、ルイスジッドレオン・ブルムアンリ・ド・レニエなどと同人誌『ラ・コンク』を発行する際に誘いを受け、創刊号に「ナルシス語る(Narcisse parle)」を投稿する。他に『エルミタージ』『ラ・シランクス』誌からも求められて詩や論文寄稿。「ナルシス語る」は日刊紙デバ』で激賞されルイスジッド並んで「最も才能豊かな三人青年作家」とも評されるようになった大学卒業する文学身を立てようとパリ出てルイス誘いマラルメ毎週火曜集まり参加する

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生い立ち・詩作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 02:35 UTC 版)

パヴロ・ティチナ」の記事における「生い立ち・詩作」の解説

1891年ロシア帝国統治にあったチェルニーヒウ州ニジィン近郊のピスキ生まれた。父は助祭であり、地元小学校の教師であったパブロには5人の姉と4人の弟の計9人の兄弟がいた。幼いティチナは、まず1897年ピスキー開校した地区小学校学んだ最初教師から後に合唱才能を試すように薦められていた。1900年には、チェルニーヒウ近郊のトロイツキー修道院合唱団一員となる。同時に若いティチナはチェルニーヒウ神学校で学ぶ。1906年、パヴロの父が亡くなる。1912年詩壇デビューその後1913年にかけて、ティチナはチェルニーヒウ神学校教育続けた。そこで、後に詩人となるワシーリ・エラン=ブラキトニと親交深めるまた、初期の作品大きな影響与えたミハイロ・コトシュビンスキーにも出会った1912年から1913年にかけて、ティチナの作品地元新聞・雑誌掲載されるうになる1913年から1917年にかけては、キエフ商業大学経済学部で学ぶが、卒業はせずであった同時にキエフ新聞ラダ』と雑誌『スヴィトロ』の編集委員務めた(1913-14年)。夏には、チェルニーヒウ統計局で働く。その後、ミコラ・サドフスキー劇場でコーラス・マイスターの助手として働く。 第一次世界大戦勃発すると、大学サラトフ移った。ティチナはサラトフに向かう途中病気になりやむなく休学し療養することになった。ドブリアンカの詩人ヴォロディミル・サミレンコ(Volodymyr Samiylenko)の家に身を寄せていた。戦時中、彼はウクライナさまざまな出版社働いた1920年、ティチナは「Pluh」の会員になった。詩ですぐに成功収めた後、1923年ハルキウ移り革命後の初期ウクライナの文学団体活気ある世界に入る。1923年ハルキウ移ってからハルトHart)という団体入り1927年には有名なヴァプリート(VAPLITE)に入った1920年代には無所属ハルキウ市議会議員になった。ヴァプリートのイデオロギー傾向や、ティチナのいくつかの詩の内容について論争起こり、彼はイデオロギー理由批判されることになった。これを受けて、ティチナは執筆中止し誰もが彼の著作はこれで終わった思ったその後、彼はチェルボヌイイ・シラーク(Chervonyi Shliakh)のメンバーとなり、アルメニア語グルジア語トルコ語研究始めキエフ東洋学会の活動となった第2次大戦では、1941年の『我々は闘いに向かう』など、ティチナの詩が頻繁に国威発揚活用された。第2次大戦後詩作継続し様々な作品残している。 1953年から1959年にはウクライナ・ソビエト社会主義共和国ヴェルホーヴナ・ラーダウクライナ最高議会ウクライナの国会に当たる)の議長務めた。 ティチナは1950年代末から1960年代にかけてのウクライナ文化復興運動には参加せず、むしろ「60年代派(shistdesiatnyky)」を攻撃ら行なった。亡くなる前の10年間は、最高指導者ニキータ・フルシチョフ共産党や、社会主義英雄集団農業などへの賞賛徹したフルシチョフ死後のレオニード・ブレジネフ体制抑圧的な時代には、ティチナの作品時代遅れだとされた。

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