生い立ち・詩作
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「ポール・ヴァレリー」の記事における「生い立ち・詩作」の解説
1871年、地中海沿岸のエロー県の港町セットに生まれる。父バルテレミーはコルシカ島バスティア生まれの税官吏で、祖先はコルシカ島の船乗り。母ファニーはトリエステ生まれで、この町駐在のイタリア領事の令嬢だった。5歳でドミニコ会の学校に入学。7歳でセットの初等学校入学、11歳で高等科に進学。少年期は読書を好んだ。1884年にモンペリエに移住し同地のリセに入学。祖父のような船乗りに憧れたが、父の反対と数学が不得手なために挫折した。またしばしば母方の郷里ジェノヴァでの滞在を楽しんだ。この頃から文学に関心を持ち始め詩を書き始め、また絵画と建築にも興味を持った。1887年3月、父バルテレミー死去。 1888年、モンペリエ大学法学部入学。ポーやボードレールの詩に熱中した。それから象徴主義、高踏派の詩人たちを知り、1889年頃、ユイスマンスの『さかしま』を耽読し、そこに引用されていたヴェルレーヌ、ランボーや、マラルメの未完の詩『エロディヤード』の断片に魅せられる。18歳の時に書いた詩「夢(Rève)」を兄がマルセイユの雑誌『Revue maritime』誌に送り初めて作品が掲載され、続いて『クーリエ・リーブル』誌に送ったソネット「月の出(Elévation de la lune)」が掲載された。この年、志願兵としてモンペリエ歩兵第122連隊で1年間兵役に就く。 1890年5月、モンペリエ大学創立600年記念祝賀で、パリからやってきた詩人ピエール・ルイスと知り合い親交を深める。ルイスはヴァレリーとの文通のなかでマラルメの『エロディヤード』の詩を30行ほどを書き送り、ヴァレリーを感激させる(1890年9月頃)。12月、ルイスを通してアンドレ・ジッドとも知り合い、終生その友情関係を結ぶ。またこの頃、マラルメに手紙を書き送り、返事をもらっている。1891年頃、詩作が活発になり、ルイスがジッド、レオン・ブルム、アンリ・ド・レニエなどと同人誌『ラ・コンク』を発行する際に誘いを受け、創刊号に「ナルシス語る(Narcisse parle)」を投稿する。他に『エルミタージ』『ラ・シランクス』誌からも求められて詩や論文を寄稿。「ナルシス語る」は日刊紙『デバ』で激賞され、ルイス、ジッドと並んで「最も才能豊かな三人の青年作家」とも評されるようになった。大学を卒業すると文学で身を立てようとパリに出て、ルイスの誘いでマラルメの毎週火曜の集まりに参加する。
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生い立ち・詩作
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1891年に ロシア帝国の統治下にあったチェルニーヒウ州ニジィン市近郊のピスキ村で生まれた。父は村の助祭であり、地元の小学校の教師であった。パブロには5人の姉と4人の弟の計9人の兄弟がいた。幼いティチナは、まず1897年にピスキーに開校した地区の小学校で学んだ。最初の教師から後に合唱の才能を試すように薦められていた。1900年には、チェルニーヒウ近郊のトロイツキー修道院の合唱団の一員となる。同時に若いティチナはチェルニーヒウの神学校で学ぶ。1906年、パヴロの父が亡くなる。1912年に詩壇にデビュー。 その後も1913年にかけて、ティチナはチェルニーヒウ神学校で教育を続けた。そこで、後に詩人となるワシーリ・エラン=ブラキトニと親交を深める。また、初期の作品に大きな影響を与えたミハイロ・コトシュビンスキーにも出会った。1912年から1913年にかけて、ティチナの作品は地元の新聞・雑誌に掲載されるようになる。1913年から1917年にかけては、キエフ商業大学の経済学部で学ぶが、卒業はせずであった。同時に、キエフの新聞『ラダ』と雑誌『スヴィトロ』の編集委員を務めた(1913-14年)。夏には、チェルニーヒウ統計局で働く。その後、ミコラ・サドフスキー劇場でコーラス・マイスターの助手として働く。 第一次世界大戦が勃発すると、大学はサラトフに移った。ティチナはサラトフに向かう途中、病気になりやむなく休学し療養することになった。ドブリアンカの詩人ヴォロディミル・サミレンコ(Volodymyr Samiylenko)の家に身を寄せていた。戦時中、彼はウクライナのさまざまな出版社で働いた。1920年、ティチナは「Pluh」の会員になった。詩ですぐに成功を収めた後、1923年にハルキウに移り、革命後の初期のウクライナの文学団体の活気ある世界に入る。1923年、ハルキウに移ってからハルト(Hart)という団体に入り、1927年には有名なヴァプリート(VAPLITE)に入った。1920年代には無所属でハルキウ市議会の議員になった。ヴァプリートのイデオロギー的傾向や、ティチナのいくつかの詩の内容について論争が起こり、彼はイデオロギー的理由で批判されることになった。これを受けて、ティチナは執筆を中止し、誰もが彼の著作はこれで終わったと思った。その後、彼はチェルボヌイイ・シラーク(Chervonyi Shliakh)のメンバーとなり、アルメニア語、グルジア語、トルコ語の研究を始め、キエフの東洋学会の活動家となった。 第2次大戦では、1941年の『我々は闘いに向かう』など、ティチナの詩が頻繁に国威発揚に活用された。第2次大戦後も詩作は継続し、様々な作品を残している。 1953年から1959年にはウクライナ・ソビエト社会主義共和国のヴェルホーヴナ・ラーダ(ウクライナ最高議会、ウクライナの国会に当たる)の議長を務めた。 ティチナは1950年代末から1960年代にかけてのウクライナ文化復興運動には参加せず、むしろ「60年代派(shistdesiatnyky)」を攻撃すら行なった。亡くなる前の10年間は、最高指導者ニキータ・フルシチョフの共産党や、社会主義英雄、集団農業などへの賞賛に徹した。フルシチョフ死後のレオニード・ブレジネフ体制の抑圧的な時代には、ティチナの作品は時代遅れだとされた。
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