特殊な政体を採る国家の元首
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ムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ大佐)が支配していた時代のリビアはジャマーヒリーヤ(直接民主制)という特異な政体を標榜しており、法的には国家元首は存在しなかった。通常は国家元首の職務とされている権能の一部は、全国人民会議書記が担っており、同書記が事務的には元首代行ともいえる。事実上の最高指導者は革命指導者のカッザーフィーであり、1979年までは革命評議会議長や全国人民会議書記長という役職に就いていた名実ともに国家元首であった。カッザーフィーは1979年に一切の公職を退いているが、それ以降も革命指導者という肩書で他国元首と親書のやり取りをするなど、対外的に国家元首と受け取れる役割を担っていた。その一方でカッザーフィーは1988年に勃発したパンアメリカン航空103便爆破事件の容疑者引き渡し問題で国連のコフィー・アナン事務総長と会談した際には「私は国家元首でも首相でもないので、容疑者を引き渡す権限を持っていません」と語ったことがある。 イランはイスラム共和制を採っており、国家元首に相当するのはイスラーム聖職者である最高指導者である。それとは別に、直接選挙によって選ばれる大統領は存在するが行政権の首長にすぎず、最高指導者から解任される規定がある。ただ、対外的にはイランの大統領も元首に準ずる存在として扱われている。日本の外務省は最高指導者と大統領が「元首」としての権能を分有しているとしている。 バチカン市国の国家元首はローマ教皇である。ローマ教皇はバチカンという独立国の国家元首であるとともに、全世界のローマ・カトリック教会の統治者であり、イエス・キリストの代理人とされている。教皇の選出はローマ・カトリック教会の高位聖職者である枢機卿による互選(コンクラーヴェ)であるから、大統領制のような国家元首公選制と見ることもできる。ただ、教皇は任期が定められていない上に本人の意に反する退位が認められておらず、事実上終身の地位である。また教皇の地位には特別な権威(聖座)が認められている。そうした点ではバチカン市国の国家元首としてのローマ教皇の地位は大統領制の大統領と同等とはいえず、むしろ選挙君主制のもとでの君主に近い。 チベット(1959年以降は亡命政権)の国家元首は、チベット仏教のダライ・ラマ法王であった。ダライ・ラマ法王の地位は世襲でも選挙制でもなく「転生」という特異な方式により継承されていた。1959年のチベット動乱によってダライ・ラマ14世とチベット政府(ガンデンポタン)はインドに移って亡命政府を樹立した。1961年、将来の独立チベット国家の体制の指針であるとともに亡命チベット人社会を統治するための自由チベット憲法が制定され、ダライ・ラマは立憲君主制体制の元首と定められた。その後、2011年にダライ・ラマ14世の発議によって亡命チベット人憲章が改訂され、ダライ・ラマは「チベットとチベット人の守護者であり象徴」となり、チベット亡命政府の国家元首の座は亡命政府主席大臣に移譲された。 サモア独立国(1997年7月3日までは西サモア(独立国))の国家元首は、オ・レ・アオ・オ・レ・マーロー(サモア式国家元首)であり、独立前の1960年10月28日の起草によるものであり、1962年1月1日の独立とともに施行された憲法で定められた国家元首の称号である。「アオ」「マーロー」は現地語(サモア語)でそれぞれ「頭(ここでは“長(おさ)”)」「政府/王国」を意味する(詳細はサモア国家元首の「概要」を参照)。 政治的な諸事情によって本来の国家元首を置くことができない場合、それに代わる存在が国家元首となる場合がある。 第一次世界大戦後のハンガリー王国は、本来はハプスブルク家出身のオーストリア大公ヨーゼフ・アウグストを国王とする王国として成立するはずであった。しかしハプスブルク家の国王を戴くことに内外の反発が強かったため、ヨーゼフ・アウグストは国王になることができず、さらにオーストリア=ハンガリー帝国最後の皇帝であったカール1世(カーロイ4世)のハンガリー国王としての復辟運動とその失敗もあり、国王空位の王国となった。国王に代わる国家元首として摂政が置かれ、建国から1944年まで海軍提督ホルティ・ミクローシュが摂政を務めた。 スペイン内戦後のスペインでは、内戦に勝利したフランシスコ・フランコ将軍が独裁権を握り、国家元首に就任した。国家元首としてのフランコはカウディーリョ(Caudillo、日本語では総統と訳される)の称号を用いた。なお、軍総司令官としてのフランコの称号はヘネラリッシモ(Generalísimo、総帥)である。一方、フランコは自分の後継体制においては王制復古してスペインを王国に戻すべきだと考えていた。1947年にフランコ総統は「国家首長継承法」を制定し、スペインを「王国」とすること、フランコが王国の「摂政」として終身の国家元首となること、フランコに後継の国王の指名権が付与されることなどを定めた。 満州国(満洲国)は1932年の建国の際、愛新覚羅溥儀が国家元首となった。清の最後の皇帝であった溥儀は、満洲国でも皇帝となることを熱望していたが、同国の実質上の支配者であった日本の関東軍は帝政を採ることによる新国家のイメージの低下を懸念してそれを許さなかったため、建国当初の満洲国の国家元首の称号は執政という曖昧なものとなった。関東軍の意向は「満洲国の元首は執政、ただし執政が善政を敷くこと数年に及ぶならば、全国民の推戴によって執政は皇帝となる」というものであった。1934年(康徳元年)3月1日、満洲国は帝政に移行して溥儀が皇帝に即位、それによって「執政」の称号は消滅した。 ヴィシー政権のフランス(国号は「フランス国」、1940年 - 1944年)の国家元首はフィリップ・ペタン元帥であった。国家元首としてのペタンはフランス国家主席(フランス語: Chef de l'État français)の称号を名乗っていた。この国は、憲法が「全権力をペタン将軍に委任する」の1条だけから構成されるという、きわめて特異な国家体制を採っていた。
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