正敦の文化事業とは? わかりやすく解説

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正敦の文化事業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 00:46 UTC 版)

堀田正敦」の記事における「正敦の文化事業」の解説

正敦は幕府若年寄として定信主導する寛政の改革推進し、その一環として和歌中心とした文教新興策を行っている。正敦は定信をはじめ、屋代弘賢北村季文塙保己一など、好学大名学者文人文化愛好集団繋がりから古典収集し同時代の学知を反映させた写本編纂している。正敦の収集資料には「堀田文庫」の蔵書印押印されており、禽譜・観文禽譜七十一番職人歌合山梨県立博物館所蔵)などがあり、『寛政重修諸家譜』の発案行っている。更に伊能忠敬とも繋がりがあり、しばしば測量事業後押し苦情処理などを担当している他、彼と交流が深い高橋至時・景保父子とも親交があった(後述)。 定信とは佐倉藩を巡るいざこざはあったが、彼が優れた文化人だったこともあり、老中辞任後彼の屋敷出入りしつつ交友関係継続した定信隠居してから書いた花月日記』に序文贈り、彼が築いた庭園浴恩園』を頻繁に訪れ定信の号『花月に対して水月』と号し互いに和歌励みながらそれぞれの著作序文を贈るなど、正敦は林述斎並び定信信頼が厚い友人であり続けた一方定信家臣水野為長記録したよしの冊子』に正敦の性格評判書かれ他人に気配り出来優れた文化人として周囲評判良い反面養子入り際し常之丞を屋敷残した一件放蕩座敷押し込め遭った話も書かれている堀田文庫代表的資料である『禽譜』(きんぷ、堀田禽譜、写本宮城県図書館などが所蔵)・『観文禽譜』(かんぶんきんぷ、宮城県図書館所蔵)は鳥類分類図鑑で、鳥類生物学的記載のみならず関係する和歌漢詩などの考証記載した総合学術辞典としての性格有する堀田禽譜には、同時期に編纂された解説書解説対応する鳥類の図が収録されており、『観文禽譜』から抜粋され解説付けられていることから、『観文禽譜』の図譜部であるとも考えられている。 『観文禽譜』は寛政6年1794年)に序文付せられていることから一旦完成見たものの、その後校訂作業続き、現在に伝わる姿になったのは天保2年1831年)のことと考えられている。 本書では、日本見られる鳥類野鳥および家禽種)を以下のように分類し各種について詳説している。 水禽 ツル科コウノトリ目カモ目チドリ目一部など 原禽 キジ目スズメ目チドリ目の各一部など スズメ目一部ハト目など 山禽 タカ目フクロウ目など 上記のほか、「異邦小鳥」の章を設けて国外の種紹介した。 正敦は、あくまで外観観察から得られる特徴収録するとともに人間とのかかわり重視しており、和名や生息地外観などの基礎的情報加え既存文献での記述状況その分析、和名を詠んだ和歌引用食用薬効などにもついても記されている。西洋主流であった身体の部位分析分類解剖学的見地立つ鳥類学とは一線を画するのであるが、しかし近現代にも通じ種の分類解説がされるとともに生態的特徴詳しく記されており、各種和名の由来日本人の生活とのかかわりを知る史料としての意味併せ持つ特徴がある。 また、正敦は当時幕府支配及んでいなかった蝦夷地にも足を運ぶと共に蘭学者などにも通じており、たとえばロシアからオランダ経由日本伝わった考えられているエトピリカ(現在は北海道での生息域限られており、近隣では主に千島列島などに生息する本書内では「エトビリカ」と表記)の図や生態収録したり、当時からタンチョウ生息域北海道内などに限られつつあったことを示唆する記述を遺している。 現在の研究成果分類比べれば細かな相違過不足こそあるものの、400上の種の外観図や生態的記述網羅されており、中には現在では都市開発による人為的破壊などによる生息地変化絶滅などによって知ることのできない種も収録されていることから、当時鳥類生態などを知る上で重要な史料になっているとともに西洋でも研究始まって間もない18世紀これだけ研究成果を遺している江戸時代学問水準の高さを今に伝えている。 一方で堀田文庫写本には、校訂作業未完成のままのものも存在し、正敦の晩年には国事多難自身老境による著述作業へ十分専念できない状況であることが述懐されており、堀田文庫写本群近世学芸文化水準の高さと同時にその限界をも示している。 寛政6年1794年) - 『観文禽譜』に尾藤二洲が序を寄せる。 寛政11年1799年) - 『寛政重修諸家譜』の編纂着手文化元年1804年) - 『観心院六十和歌』(実兄土井利徳次男宗顕の養父田村村資らと共著完成文化2年1805年) - 『か花すり』完成文化5年1808年) - 蝦夷地視察記録松前紀行蝦夷紀行)』完成文化9年1812年) - 『寛政重修諸家譜』・『寛政重修諸家譜目録完成天保2年1831年) - 仙台藩儒者桜田欽斎・河野庵により『観文禽譜』が訂補され完成。 なお、正敦が携わった『観文譜』、『観文介譜』の詳しい成立時期は不明である。

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