正敦の文化事業
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正敦は幕府の若年寄として定信の主導する寛政の改革を推進し、その一環として和歌を中心とした文教新興策を行っている。正敦は定信をはじめ、屋代弘賢や北村季文、塙保己一など、好学大名や学者・文人ら文化愛好集団の繋がりから古典を収集し、同時代の学知を反映させた写本を編纂している。正敦の収集資料には「堀田文庫」の蔵書印が押印されており、禽譜・観文禽譜や七十一番職人歌合(山梨県立博物館所蔵)などがあり、『寛政重修諸家譜』の発案も行っている。更に伊能忠敬とも繋がりがあり、しばしば測量事業の後押しや苦情処理などを担当している他、彼と交流が深い高橋至時・景保父子とも親交があった(後述)。 定信とは佐倉藩を巡るいざこざはあったが、彼が優れた文化人だったこともあり、老中辞任後も彼の屋敷へ出入りしつつ交友関係を継続した。定信が隠居してから書いた『花月日記』に序文を贈り、彼が築いた庭園『浴恩園』を頻繁に訪れ、定信の号『花月』に対して『水月』と号し、互いに和歌に励みながらそれぞれの著作に序文を贈るなど、正敦は林述斎と並び定信の信頼が厚い友人であり続けた。一方、定信の家臣水野為長が記録した『よしの冊子』に正敦の性格と評判が書かれ、他人に気配りが出来る優れた文化人として周囲の評判が良い反面、養子入りに際し常之丞を屋敷へ残した一件や放蕩で座敷押し込めに遭った話も書かれている。 堀田文庫の代表的資料である『禽譜』(きんぷ、堀田禽譜、写本を宮城県図書館などが所蔵)・『観文禽譜』(かんぶんきんぷ、宮城県図書館所蔵)は鳥類分類図鑑で、鳥類の生物学的記載のみならず、関係する和歌や漢詩などの考証も記載した総合学術辞典としての性格を有する。堀田禽譜には、同時期に編纂された解説書の解説に対応する鳥類の図が収録されており、『観文禽譜』から抜粋された解説が付けられていることから、『観文禽譜』の図譜部であるとも考えられている。 『観文禽譜』は寛政6年(1794年)に序文が付せられていることから一旦完成を見たものの、その後も校訂作業は続き、現在に伝わる姿になったのは天保2年(1831年)のことと考えられている。 本書では、日本で見られる鳥類(野鳥および家禽種)を以下のように分類し、各種について詳説している。 水禽 ツル科、コウノトリ目、カモ目、チドリ目の一部など 原禽 キジ目、スズメ目、チドリ目の各一部など 林禽 スズメ目の一部、ハト目など 山禽 タカ目、フクロウ目など 上記のほか、「異邦禽小鳥」の章を設けて国外の種を紹介した。 正敦は、あくまで外観や観察から得られる特徴を収録するとともに人間とのかかわりを重視しており、和名や生息地、外観などの基礎的情報に加え、既存文献での記述状況やその分析、和名を詠んだ和歌の引用、食用・薬効などにもついても記されている。西洋で主流であった、身体の部位の分析や分類、解剖学的見地に立つ鳥類学とは一線を画するものであるが、しかし近現代にも通じる種の分類と解説がされるとともに、生態的特徴も詳しく記されており、各種の和名の由来や日本人の生活とのかかわりを知る史料としての意味を併せ持つ特徴がある。 また、正敦は当時幕府の支配が及んでいなかった蝦夷地にも足を運ぶと共に蘭学者などにも通じており、たとえばロシアからオランダ経由で日本に伝わったと考えられているエトピリカ(現在は北海道での生息域は限られており、近隣では主に千島列島などに生息する。本書内では「エトビリカ」と表記)の図や生態を収録したり、当時からタンチョウの生息域が北海道内などに限られつつあったことを示唆する記述を遺している。 現在の研究成果や分類と比べれば細かな相違や過不足こそあるものの、400以上の種の外観図や生態的な記述が網羅されており、中には現在では都市開発による人為的破壊などによる生息地の変化や絶滅などによって知ることのできない種も収録されていることから、当時の鳥類の生態などを知る上で重要な史料になっているとともに、西洋でも研究が始まって間もない18世紀にこれだけの研究成果を遺している江戸時代の学問水準の高さを今に伝えている。 一方で、堀田文庫の写本には、校訂作業が未完成のままのものも存在し、正敦の晩年には国事多難と自身の老境による著述作業へ十分専念できない状況であることが述懐されており、堀田文庫の写本群は近世学芸文化の水準の高さと同時にその限界をも示している。 寛政6年(1794年) - 『観文禽譜』に尾藤二洲が序を寄せる。 寛政11年(1799年) - 『寛政重修諸家譜』の編纂に着手。 文化元年(1804年) - 『観心院六十賀和歌』(実兄土井利徳、次男宗顕の養父田村村資らと共著)完成。 文化2年(1805年) - 『萩か花すり』完成。 文化5年(1808年) - 蝦夷地視察記録『松前紀行(蝦夷紀行)』完成。 文化9年(1812年) - 『寛政重修諸家譜』・『寛政重修諸家譜目録』完成。 天保2年(1831年) - 仙台藩の儒者・桜田欽斎・河野杏庵により『観文禽譜』が訂補され、完成。 なお、正敦が携わった『観文獣譜』、『観文介譜』の詳しい成立時期は不明である。
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