正教弾圧とは? わかりやすく解説

正教弾圧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 02:17 UTC 版)

ソビエト連邦」の記事における「正教弾圧」の解説

ロシア革命によって世俗主義無神論唯物論奉じるソビエト連邦成立すると、ロシア帝国国教であった正教組織としてはロシア正教会のほか、ウクライナ正教会グルジア正教会などを含む)は多数聖堂修道院閉鎖され財産没収された。のちに世界遺産となるソロヴェツキー諸島修道院群は強制収容所転用された。 聖職者信者外国のスパイなどの嫌疑逮捕され多数の者が処刑され致命した。初代京都主教務めた大主教アンドロニク・ニコリスキイ生き埋めの上銃殺されるという特異な致命知られるモスクワ総主教ティーホン当初無神論標榜するボリシェヴィキに対して強硬な反発示していたが、想像以上苛烈弾圧教会に対して行われていく情勢に対して現実的姿勢転換しソヴィエト政権ロシア正当な政府認め一定の協力行ったが、教会活動はなお著しく抑圧された。 1921年から1923年にかけてだけで、主教28人、妻帯司祭2691人、修道士1962人、修道女3447人、その他信徒多数処刑された。1918年から1930年にかけてみれば、およそ42000人の聖職者殺され1930年代にも3から35000司祭銃殺もしくは投獄された。1937年1938年には52人の主教のうち40人が銃殺された。 政府迫害恐れ多数亡命者出た亡命者たちの中からはセルゲイ・ブルガーコフウラジーミル・ロースキイパーヴェル・エフドキーモフイリア・メリアメリアグルジア人)など世界的に著名な神学者輩出され20世紀初頭まであまり知られていなかった正教伝統海外知られるきっかけとなった1931年にはスターリン命令によって救世主ハリストス大聖堂爆破された。 1940年代に入ると、独ソ戦におけるドイツ侵攻に対して国民士気を鼓舞する必要に駆られたスターリンは、それまで物理的破壊伴った正教会への迫害方向転換して教会活動一定の復興認め1925年総主教ティーホン永眠し以降空位となっていたモスクワ総主教選出認めた1943年)。この際それまで禁止されていた教会関連出版物きわめて限定されたものではあったものの認められ1918年から閉鎖されていたモスクワ神学アカデミー再開許可された。 ただし1940年代半ばにはソ芬戦争以後ヴァラーム修道院のある地域ソ連となったため、ヴァラーム修道院修道士達はフィンランド亡命し、この結果フィンランド正教会新ヴァラーム修道院設立されるなど、ソ連における正教弾圧は亡命者が出ることがないほどにまで緩和されわけではないスターリンの死後フルシチョフ再度正教会への統制強化。緩やかかつ細々とした回復基調にあったロシア正教会再度打撃を蒙り、教会数は半分以下に減少以降ソ連崩壊に至るまでロシア正教会教勢回復することはなかった。

※この「正教弾圧」の解説は、「ソビエト連邦」の解説の一部です。
「正教弾圧」を含む「ソビエト連邦」の記事については、「ソビエト連邦」の概要を参照ください。

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