正教内でのギリシャ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 19:20 UTC 版)
「トルコクラティア」の記事における「正教内でのギリシャ」の解説
オスマン帝国下における正教会の人々は言語や民族に関係なく正教徒として扱われていた。そのためギリシャ人、ブルガリア人、セルビア人、ルーマニア人、アルバニア人、そしてアラビア語を話す正教徒、トルコ語を母語とするカラマンル (en) など雑多な人々が正教徒として扱われ、一つの区分として丸くくりされてはいたが、母語を元に民族意識も二次的では要していた。 彼らは正教徒として扱われたため、そのシステムの頂点にはコンスタンティノープル総主教が当てられ、教会システムもそのまま残された。そして総主教はスルタンの承認のもとに正教会の聖職者の任免権を保っていた。そのため、運営の中心には世界総主教座を中心とする正教会が運営を握ったため、ギリシャ系の正教徒らが高い地位を占め、正教徒社会に対して強い影響を持っていた。そしてさらにギリシャ系の人々が非ギリシャ系の人々に対してギリシャ語の使用を奨励してギリシャ化しようとすることもあった。これに対してセルビアの正教徒らが一時的にセルビア総主教座を回復させたり、アルバニア系正教徒らがアルバニア語での教育を求めるなど、他の民族による反発は根強くあった。 オスマン帝国がコンスタンティノープルを占領したことで高度な教育機関は消滅したが、コンスタンティノープル総主教座を中心として聖職者養成学校は維持され、アトス山の修道院では宗教寄進財産も認められていた。さらにビザンツ帝国時代には皇帝権力に属していた司法、民政も正教会が担った。正教徒同士の諍いである場合、聖職者が裁判を扱い、また、ローマ法が適用された。
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