植民地支配と中国研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 08:28 UTC 版)
明治以後、漢文文献に依拠する古典的中国学がアカデミズムの重要領域とされたのに引き換え、中国の政治・経済・文化などの現状に対する知的関心が低下したこともあって、現状分析的な中国学の発展は遅れた。なお、第二次世界大戦以前の旧制教育機関では、英語・ドイツ語・フランス語と異なり、高等学校 - 帝国大学を主軸とするメインストリームの高等教育においては、現状分析の基礎となる中国語教育が十分には行われなかった(中国語や同時代の中国事情を学ぶ授業が開講されたのは、高等教育では傍系に位置し、ビジネスマンなど実務家の養成を担当する商科大学や高等商業学校、私立の専門学校などである)。初期の現状分析的研究のうち特筆されるべきものとして、興亜会の中国語教育、日清貿易研究所(東亜同文会の前身)の現地調査活動が挙げられるが、これらはアカデミズムの外部にある「アジア主義者」・「大陸浪人」の活動として一段低く評価されていた。 日本において現状分析的な中国研究の組織化・制度化がみられるのは、やはり日本の東アジアへの領土的進出が始まった日清・日露戦間期以降である。その背景として戦争や植民地支配のために多数の中国語通訳を育成する必要が生じ、また中国の現状について正確な情報や分析を提供することが要請されたのである。まず日本最初の海外植民地となった台湾において後藤新平民政長官は行政機構確立に資するため、1901年「臨時台湾旧慣調査会」を設置、法学者の岡松参太郎らを招聘し当地の慣習法や行政制度の包括的調査に当たらせた(その成果は『台湾私法』(1910 - 11年刊)・『清国行政法』(1905 - 13年刊)として刊行)。その後満鉄の初代総裁に就任した後藤は、ここでも「調査の政治家」としての本領を発揮し、再び岡松を招いて1907年調査部を設置して同社の基幹部門の一つとし、鉄道経営や植民地統治のための調査を行わせた。この満鉄調査部はロシア革命の影響もあって、第二次世界大戦以前の、日本最大の中国研究のシンクタンクへと発展し、戦時期から戦後にかけて活躍することになる著名な中国研究者を多数輩出した。 先に述べた商科大学・高等商業学校などの専門学校においても、特に第一次世界大戦後、中国(中華民国)への経済進出が拡大していくにしたがって、現状分析的研究が次第に制度化され、進展していくことになった。その中でもユニークな地位を占めていたのが、東亜同文会により日中交流に当たる人材の育成を目的に1901年上海に設立された東亜同文書院である。この学校は、卒業に際して中国の現地調査旅行と報告書の提出を学生に課すことで中国全土の社会・経済に関する膨大な情報を蓄積した。また現代中国語辞典の編纂プロジェクトを進めたことでも知られているが、このプロジェクトは第二次大戦後、同校の事実上の後身校である愛知大学に継承され1968年『中日大辞典』として刊行された。また1920年代以降、国民革命など新たな中国ナショナリズムが勃興したことを背景に、それまで文化的・歴史的関心に片寄っていたアカデミズムの中国学は(古典学・現状分析を問わず)社会・経済を研究対象とするようになり、これより戦時期に至るまで社会科学的方法による中国学が大きな進展を見せた。同時期マルクス社会科学が日本に導入され一種の知的流行となったこともこの傾向に拍車をかけ、特にソ連などで盛んであったアジア的生産様式論に基づく中国の歴史研究・現状分析が行われるようになった。この新動向は尾崎秀実にみられるように満鉄調査部などにも一定の影響を及ぼし、戦時期の中国ナショナリズムの評価をめぐる「中国統一化論争」などの活発な論争を巻き起こした。 1930年代に入って日中間の戦争が全面化すると、中国社会・経済の研究は大陸進出の国策に沿った研究として重視された。1938年にはアジアに関わる国策調査機関として東亜研究所が新設、翌1939年には満鉄調査部の組織が大幅に拡充された。さらに、占領地の軍政のなかで反日感情の強い現地社会を懐柔する必要から、より包括的な社会調査が求められるようになった。このような事情を背景に、満鉄調査部・東亜研究所の共同で1940年から1944年にかけて「華北農村慣行調査(中国農村慣行調査)」が敢行された。民法学者の末弘厳太郎が指導し、戦後代表的な中国学者・アジア学者となる平野義太郎・仁井田陞・旗田巍などが参加したこの調査は「生きた法慣行を調査する」ことを標榜し、占領下の調査であるという大きな限界を持ちながらも、戦時期での現状分析的中国学にとって最大の成果となった。またこの時期には中国文学研究会(1934年結成)を主宰した竹内好や支那抗戦力調査(1939 - 40年)の中心となった中西功など、現地体験を持つ新世代の中国学者が台頭し、彼らにより旧態依然たる古典学的「支那学」が批判される動きもあった。
※この「植民地支配と中国研究」の解説は、「中国学」の解説の一部です。
「植民地支配と中国研究」を含む「中国学」の記事については、「中国学」の概要を参照ください。
- 植民地支配と中国研究のページへのリンク