植民地戦争、独裁政権の崩壊
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「ポルトガルの歴史」の記事における「植民地戦争、独裁政権の崩壊」の解説
「アフリカの年」と呼ばれる1960年にはアフリカ大陸の植民地が相次いで独立するが、サラザールはポルトガルの植民地を「海外州」と規定し、独立を認めなかった。1961年1月にエンリケ・ガルヴァンがカリブ海の客船サンタ・マリア号を占拠してサラザール政権の弾圧を告発する事件が起き、ガルヴァンらはアメリカ軍に拘束された後にブラジルに亡命するが、国際社会は植民地の独立を認めないポルトガルに強い批判を浴びせた(サンタマリア号乗っ取り事件)。1961年から1964年にかけてアンゴラ、ギニアビサウ、モザンビークの植民地で独立闘争が勃発し、国際世論もポルトガルに批判的な目を向けていた。ソビエト連邦、中国の抵抗を受けたゲリラは頑強に抵抗したため戦争は膠着状態に陥り、末期には20万の将兵と国家予算の4割が投入された。 1968年にサラザールは政界から引退し、リスボン大学の教授マルセロ・カエターノがサラザール体制の指導者となる。抑圧的な政治からの脱却を図るカエターノはサラザールによって追放されていたポルト司教の帰国を認め、検閲を緩和する。しかし、依然として植民地戦争からの撤退を表明せず、国民の失望は移民の増加、左翼勢力の反政府活動の過激化という形で表れる。植民地戦争の前線に立つ将校はマルクス、レーニン、毛沢東の思想の影響を受けて国軍運動を結成し、植民地の武力弾圧に反対していたギニアビサウ総督兼総司令官アントニオ・デ・スピノラ(英語版)に接近しつつ、クーデターの準備を進めていく。1974年4月25日、植民地戦争に従軍していた青年将校が植民地の独立と民主化を訴えて反乱を起こす。同日の夕刻にカエターノはスピノラに全権を委譲し、翌日の朝に大統領アメリコ・トマスとともにマデイラ諸島に移送される。将校たちの無血革命によってサラザール政権は打倒され、5月15日に臨時大統領に就任したスピノラによって挙国一致内閣が結成された(カーネーション革命)。 スピノラと国軍運動を指導する青年将校たちは植民地問題を巡って対立し、政争に勝利した将校たちはただちに植民地を独立させる。1975年3月に革命評議会が創設され、共産党と連携した政府は基幹産業の国有化と農地改革を実施する。急速な共産主義への傾倒は国民の不安を煽り、同時にポルトガル経済は危機的な状況に陥った。混乱の中で国軍運動内の穏健派は社会党を結託して実権を握り、以降国軍は政界での力を失っていく。1976年2月、軍政から民政への移行が決定する。
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