植民地戦争、独裁政権の崩壊とは? わかりやすく解説

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植民地戦争、独裁政権の崩壊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 05:54 UTC 版)

ポルトガルの歴史」の記事における「植民地戦争、独裁政権の崩壊」の解説

アフリカの年」と呼ばれる1960年にはアフリカ大陸植民地相次いで独立するが、サラザールポルトガルの植民地を「海外州」と規定し独立認めなかった。1961年1月にエンリケ・ガルヴァンがカリブ海客船サンタ・マリア号占拠してサラザール政権弾圧告発する事件起き、ガルヴァンらはアメリカ軍拘束された後にブラジル亡命するが、国際社会植民地独立認めないポルトガルに強い批判浴びせたサンタマリア号乗っ取り事件)。1961年から1964年にかけてアンゴラギニアビサウモザンビーク植民地独立闘争勃発し国際世論ポルトガル批判的な目を向けていた。ソビエト連邦中国抵抗受けたゲリラ頑強に抵抗したため戦争膠着状態に陥り、末期には20将兵国家予算の4割が投入された。 1968年サラザール政界から引退しリスボン大学教授マルセロ・カエターノサラザール体制指導者となる。抑圧的な政治からの脱却を図るカエターノはサラザールによって追放されていたポルト司教帰国認め検閲緩和する。しかし、依然として植民地戦争からの撤退表明せず国民失望移民の増加左翼勢力反政府活動過激化という形で表れる植民地戦争前線に立つ将校マルクスレーニン毛沢東思想の影響受けて国軍運動結成し植民地武力弾圧反対していたギニアビサウ総督総司令官アントニオ・デ・スピノラ(英語版)に接近しつつ、クーデターの準備進めていく。1974年4月25日植民地戦争従軍していた青年将校植民地独立民主化訴えて反乱を起こす同日夕刻にカエターノはスピノラ全権委譲し翌日の朝に大統領アメリコ・トマスとともにマデイラ諸島移送される将校たちの無血革命によってサラザール政権打倒され5月15日臨時大統領就任したスピノラによって挙国一致内閣結成された(カーネーション革命)。 スピノラ国軍運動指導する青年将校たちは植民地問題巡って対立し政争勝利した将校たちはただちに植民地独立させる1975年3月革命評議会創設され共産党連携した政府基幹産業国有化農地改革実施する急速な共産主義への傾倒国民の不安を煽り同時にポルトガル経済危機的な状況陥った混乱の中で国軍運動内の穏健派社会党結託して実権握り以降国軍政界での力を失っていく。1976年2月軍政から民政への移行決定する

※この「植民地戦争、独裁政権の崩壊」の解説は、「ポルトガルの歴史」の解説の一部です。
「植民地戦争、独裁政権の崩壊」を含む「ポルトガルの歴史」の記事については、「ポルトガルの歴史」の概要を参照ください。

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