植民地戦争における投入(1884年から1914年)
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「マキシム機関銃」の記事における「植民地戦争における投入(1884年から1914年)」の解説
ヘンリー・モートン・スタンリーの主導により、マキシム機関銃の試作銃が「エミン・パシャ救援」遠征隊に供与され、1886年から1890年にかけて使用された。槍と盾が主要装備のアフリカ諸民族に対しては、効果絶大であった。 マキシム機関銃を配備した世界最初の部隊は、1889年のシンガポール義勇軍部隊だった。これは現在独立しているかつてのイギリス植民地の、一般人からなる義勇兵の防衛部隊だった。 本銃の殺傷力は、時代遅れの突撃戦術に対して破壊的な効果を発揮し、19世紀後半におけるアフリカのヨーロッパ植民地化戦争において重要な役割を演じた。1893年から1894年にかけ、マキシム機関銃はローデシアの第一次ンデベレ戦争でイギリス植民地部隊によって使用された。シャンガニの戦闘で、ヤリと棍棒を武器にしたンデベレ族の戦士たちは開けた地形での正面戦闘におびき出され、4挺のマキシム機関銃を装備した50人のイギリス兵が、突撃してくる100倍にあたる5千人のンデベレ戦士を撃退した。歴史家で作家のヒレア・ベロックは「何が起ころうと、我々にはマキシム機関銃がある。そして奴らは持っていない」と要約した。一方ンデベレ側の被害は悲惨で「どれほどの涙を流しても、殺された戦士たちを悼むに足りない」と記述される大被害を蒙った。 しかしながら植民地での戦いにおけるマキシム機関銃の破壊力は俗説によってしばしば過度に強調された。現代の歴史の報告書はそれを暗示しており、この兵器はマタベレ戦争や1898年のオムダーマンの戦いのような、正面戦闘の状況では効果的だった。その重要性は、身体への影響と同じく、心理への影響のせいでもあった。 マキシム機関銃の大口径化されたものはマキシム・ノルデンフェルトによって製造され、1ポンドの砲弾を発射した。これは発射音からポンポン砲(QF 1ポンド砲)として第二次ボーア戦争で知られ、両軍で投入された。マキシム機関銃は、1901年から1902年に今日のナイジェリアで勃発したアングロ・アロ戦争でも使われた。
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