植民地戦争と冷戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/29 18:33 UTC 版)
第二次世界大戦後、蘭印では現地人による独立宣言がなされ状況は悪化しインドネシア独立戦争が勃発する。結局、インドネシアの独立は達成されオランダはインドネシア地域から撤退することになったが、西ニューギニアは引き続きオランダ領として維持された。オランダは1958年にインドネシア軍侵入の証拠があったとして、防空のためにビアク島に空軍の援軍部隊を展開させる。展開当初はビアク島とミオス・ウンディ島の2箇所にMkIV早期警戒レーダーを設置した。オランダ・インドネシア間の政治情勢は悪化の一途を辿り、1960年に増援を展開する「フィデリオ計画(Plan Fidelio)」を発動している。そしてオランダ空軍はオランダ領ニューギニア防空軍(CLV NNG)を新編し防空飛行隊やビアク島レーダー・システムおよび予備飛行場を指揮下に置き、12機のホーカー ハンターMk.4 AD戦闘機や2機のアルエットII救難ヘリコプターを展開させた。さらに空母「カレル・ドールマン」を東南アジアに回航させている。翌年にはオランダ政府はより長大な戦闘行動半径を持つホーカー ハンターMK6 AD戦闘機12機を導入する。1962年8月、遂にインドネシア軍は侵攻準備を整える。援軍を送っているにもかかわらずオランダ軍は攻撃に耐えられないとみられ、国際的圧力に従いオランダ政府は平和的放棄を余儀なくされ現地から撤退する。第336飛行隊はニューギニアと密接に関わっており、再動員後オランダ海軍から空輸任務を引き継ぎニューギニアに配備される。第336飛行隊はダコタ輸送機3機やアメリカ製補給機3機を運用し、1961年9月から1962年9月までの間に約5,400人の人員を輸送している。 1951年に陸軍航空隊内のいくつかの非戦闘部門は女性に開放された。そして1953年3月27日に陸軍から切り離され独立軍種となる。これに合わせて防空軍(CLV)が新編されレーダーサイト5箇所と6個戦闘飛行隊が編成される。保有機は全てイギリス空軍の余剰機で構成された。北大西洋条約機構加盟後は新たに戦術空軍(CTL)が新編され7個飛行隊には1952年から1956年にかけて相互防衛援助プログラムに基づきリパブリック F-84Gジェット戦闘機が供与された。同時期、この他にはホーカー ハンタージェット戦闘機やノースアメリカン F-86ジェット戦闘機を装備した飛行隊があった。 1960年代以降、西欧防衛の一翼を担う存在として各国軍との関係を密にする。防空任務に新たにMIM-14 ナイキ地対空ミサイルが配備され、その後MIM-23 ホーク地対空ミサイルが加わっている。オランダ空軍戦闘機は年間を通じてNATO警告やアラート待機および演習には全参加している。1962年から1983年にかけて第313、第311、第312、第322飛行隊には逐次ロッキード F-104戦闘機に更新される。第313、第314、第315および第316飛行隊では1969年から1992年までカナディア CF-5戦闘機が配備されていた。1979年からはNATO標準戦闘爆撃機であるジェネラル・ダイナミクス F-16戦闘機に更新が開始されている。
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