植民地支配下の活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/05 09:44 UTC 版)
「セカルマジ・マリジャン・カルトスウィルヨ」の記事における「植民地支配下の活動」の解説
1905年、中部ジャワ州の地方政府官吏の家庭に生まれる。1901年からオランダ領東インドでは倫理政策が実施され、現地民への近代化教育が行われ始めていたため、カルトスウィルヨはヨーロッパ式の近代教育を受けて育った。 1923年にオランダインド諸島医科大学に入学。在学中にサレカット・イスラム指導者のウマル・サイード・チョクロアミノト(英語版)と出会い、彼の家に個人秘書として住み込むようになり、サレカット・イスラムの思想に傾倒する。1927年、「共産主義に関する書籍を所持していた」として退学処分を受ける。その後、西ジャワ州ガルトのサレカット・イスラム指導者の娘と結婚し、同地にマドラサを設立した。 1939年1月30日、シャリーアに基くインドネシア国家の樹立を主張するカルトスウィルヨは、民族主義を重視するインドネシア・サレカット・イスラム党(PSII:1929年にサレカット・イスラムから改名)と対立し、党を除名される。除名後、カルトスウィルヨは党内の賛同者と共に「PSIIの真実の擁護委員会」を設立する。 太平洋戦争に伴う日本軍の軍政下で、宗主国オランダを含む連合国の侵攻に対抗するため日本軍への協力を決め、ガルトで民兵を組織する。
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