植民地政府と戦争の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/14 15:19 UTC 版)
「ボリビア独立戦争」の記事における「植民地政府と戦争の背景」の解説
チャルカス(英語版)(現ボリビア)はアルト・ペルーと呼ばれることもある。この地域は16世紀にスペイン帝国の植民地になった。最初はペルー副王領の直接統治におかれたが、実効性のある統治を行うには遠隔地すぎたため、スペイン王フェリペ2世はペルー副王領の下に自治政府のレアル・アウディエンシア・デ・チャルカス(英語版)を設立した。このアウディエンシア政府はオイドール(英語版)(聴訴官)とプレシデンテ(長官)で構成され、副王が不在などで決定を下せないときに最終決定権を有する。レアル・アウディエンシア・デ・チャルカスの中心地はチュキサカであり、最初は先住民族の集落として始まったが、独立以降は「スクレ」に改称された。チュキサカは行政の中心地であるのと同時に、チャルカスの文化活動の中心でもあった。チャルカス司教はチュキサカに住み、聖フランシスコ・ハビエル大学(英語版)もチュキサカで設立された大学である。アウディエンシアが設立されたことはチャルカスにとって名誉なことであった。オイドールはスペインから派遣される者が大半であり、全員に腰をかがめてお辞儀をさせるなど偉そうに振舞った。また住民が必要なものや直面した問題について全くの無知であることが多い。スペイン植民地が南へ拡張するにつれ、レアル・アウディエンシア・デ・チャルカスの支配地域も現ボリビア領だけでなく、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ひいてはペルーの一部まで及んだ。1776年、レアル・アウディエンシア・デ・チャルカスはブエノスアイレスを中心とするリオ・デ・ラ・プラタ副王領の下におかれ、貿易先の大半がブエノスアイレスに切り替えた。ペルーは巨万の富が埋蔵されているポトシの鉱山を保持しようとしたため、この改革はペルーにとって喜べるものではなかった。その後の数十年間、ペルーとリオ・デ・ラ・プラタはチャルカスと政治的に、そして経済的に結びつけるべく争った。1890年5月25日、チュキサカの住民はボリビア独立戦争の火蓋を切り落とす最初の反乱に参加した。 1784年、スペインはインテンデンシア制(英語版)を導入、ラパス、コチャバンバ、ポトシ、チュキサカの4インテンデンシアを設立した。この制度では権力が少数のスペイン王直属官僚に与えられた。制度導入の目的は収入を増やすことと、ほかの権力者による権力の乱用を防ぐことであった。その後、インテンデンシア制によりアウディエンシアの権力が制限された。 ボリビア人はクリオーリョ、メスティーソ、先住民族の3種類に分けられた。権力の座についたのは影響力のある半島人(英語版)であり、彼らはスペイン本国から植民地に向かい、教会や政府の高い役職についたのであった。それ以外のボリビア人の社会地位は全てこのエリート層より下である。クリオーリョはスペイン人の血統を有するラテンアメリカ生まれの人であり、半島人のみが権力の座につけられることに不満を持ち、この不満が独立戦争の起因の1つになった。クリオーリョの下の階層はメスティーソ、すなわちスペイン人と先住民族の混血である。スペイン人と先住民族が混血した理由は、植民地でスペイン人女性が不足したためであった。そして、社会階層の最下層民は先住民族(主にアイマラ語かケチュア語を話す)であり、人数では最多だった。先住民族は政治情勢を知らない者が多かったが、愛国派と王党派の双方に大勢の兵士を提供した。いずれにしても、独立戦争における先住民族の行動は予測が難しく、少し挑発を受けただけで憤激してしまうこともあった。先住民族は一般的には愛国派か王党派かにかかわらず、地域を支配した勢力に味方することが多かった。そして、先住民族の居住する農村部を支配した勢力はレプブリケタである場合が多かった。また、先住民族は兵士として愛国派にも王党派にも味方したが、王党派がスペイン血統のみであったのに対し、愛国派には先住民族の血が流れる者も多かったため、心情的には愛国派のほうを好んだ。先住民族の本当の目的はインカ帝国の復活であった。愛国派も王党派も先住民族の助力に満足したが、先住民族を解放しようと考えた勢力は存在しなかった。 チャルカスの住民にとって、独立は新しい概念ではなかった。独立の概念は独立戦争のはるか前にもたらされており、住民の政体に対する不満はすでに表れ始めていた。ボリビアの全ての社会階層すなわちクリオーリョ、メスティーソ、先住民族が不満を感じた。というのも、いずれもスペインの増税と貿易制限の影響を受けたためであった。先住民族の反乱は1730年にコチャバンバで起きた反乱(英語版)が始まりであり、それ以降も反乱が相次いだ。どの階層も不満をもったものの、不満の解決策はそれぞれ異なった。例えば、先住民族はスペイン人を全て追い出し、アンデス人の楽園を作り出そうとしたが、クリオーリョは単純にスペインに対しより自由でいたいだけだった。クリオーリョが先住民族を差別したため、クリオーリョと先住民族がスペインに対抗するために手を組むことはなかった。 革命思想の多くはチュキサカの大学から広まったものだった。1780年代初期には大学生がチャルカスで小冊子を配った。この小冊子はスペイン当局に反対するものであり、官僚を「盗賊」とまで呼んだ。独立という概念自体は政治について記述した神学者トマス・アクィナスに由来するものだった。アクィナスは統治者が暴君である場合、人民には反乱を起こして政府に反抗する権利があると記述した。統治者が教皇の下にあるため、人民は国王に反乱することができたが、神に反乱することはできないとした。大学生のうち革命や急進派の指導者になった者はいないが、ハイメ・デ・スダニェス(英語版)、マヌエル・デ・スダニェス(スペイン語版)、ベルナルド・デ・モンテアグド(スペイン語版)の3人が影響力を発揮した。ハイメ・デ・スダニェスはアウディエンシアの官僚であり、アウディエンシアが下す決定を影響したが、彼の行為を反逆的と疑うものはいなかった。その兄弟であるマヌエル・デ・スダニェスも官僚であり、チュキサカ大学でも高位にあった。ベルナルド・デ・モンテアグドは貧しい出自の作家であったが、彼の中傷戦術は大きな影響力を発揮した。3人ともプレシデンテのラモン・ガルシア・レオン・デ・ピサロ(英語版)の追放に賛成した。
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