レプブリケタ
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1810年から1824年まで、独立の思想はチャルカスのバックカントリー(遠隔地)で結成された6つのゲリラ組織によって保存された。これらの組織の支配地域はボリビアの史学史においてレプブリケタ(英語版)(小共和国)と呼ばれた。レプブリケタはチチカカ湖地域、ミスケ(英語版)、バリェグランデ(英語版)、アヨパヤ(英語版)、チュキサカ近郊、そしてサンタ・クルス・デ・ラ・シエラ近くの南部地域などで活動した。レプブリケタはカウディーリョが率いていた。カウディーリョは自身のカリスマ性や軍事指導力で権力を保持して、半独立国を築いたのであった。その追従者は都市部からの政治亡命者、牛泥棒などクリオーリョとメスティーソ社会のはみ出し者であった。クリオーリョとメスティーソが主体のレプブリケタは先住民族と同盟することが多かったが、地域の独立が先住民族の物質的と政治的利害と衝突したため、先住民族が常にレプブリケタに味方したわけではなかった。結果的にはレプブリケタがチャルカスを独立させるほどの規模も組織もなく、王党派との15年間の膠着を維持してブエノスアイレスによる支配の試みをはねのけただけにすぎなかった。これらのレプブリケタの多くは遠隔地すぎて、ほかのレプブリケタの存在すら知らなかったのであった。 レプブリケタの時期、アルゼンチンの急進派は1810年5月25日に独立を勝ち取った。チャルカスがリオ・デ・ラ・プラタ副王領の一部だったため、急進派はチャルカスも解放しようとした。チャルカスの住民は呼応して、王党派への反乱を起こした。1810年から1817年まで、アルゼンチンが軍を3度も派遣した。1回目の派遣軍はフアン・ホセ・カステッリ(英語版)が率いたものであり、彼は勝利したのちアウディエンシアのプレシデンテ、ポトシのインテンデンテ、そして王党派の将軍1人を逮捕した。これら3人は敵側にもかかわらず市民から尊敬されていたため、市民たちは3人の逮捕に抗議した。しかし、カステッリは3人がアルゼンチンに降伏しなかったため3人を処刑、さらにアルゼンチン軍が略奪、ポトシ市民の殺害などの残虐行為に至った。やがてカステッリはチュキサカの侵攻に向かった。カステッリはチャルカス諸都市を王党派の軍勢から解放したが、同時に荒らしまわって都市を破壊し、市民を虐待した。一方で先住民族に自由を与えてその生活水準を引き上げるなどの改革を行った。ペルー副王領との国境に着くと、カステッリは進軍を止めてゴイェネチェと条約を締結したが、それも守らずに拡張を続けた。1811年6月20日にゴイェネチェがカステッリ軍を攻撃すると、カステッリはアルゼンチンまで逃げ帰った。オルロなどの都市がカステッリに報復しようとしたため、カステッリはそれらの都市を迂回しなければならなかった。ゴイェネチェはカステッリの軍勢を追撃せず、代わりに傷者への手当てを行った。この1回目の侵攻の結果はカステッリが撤退して王党派の再来に終わり、2回目と3回目もアルゼンチンの敗北に終わった。 チャルカスの王党派地域はコルテス・デ・カディス(英語版)への代表を選出した(当選者はマリアーノ・ロドリゲス・オルメド(Mariano Rodríguez Olmedo)、任期1813年5月4日 - 1814年5月5日)。オルメドを含む代表70名は1814年のマニフェスト・デ・ロス・ペルサス(スペイン語版)(「ペルシア人の宣言」)に署名して、フェルナンド7世に1812年憲法の廃止を求めた。
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