社会と民族間の敵対
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 15:29 UTC 版)
「イスパノアメリカ独立戦争」の記事における「社会と民族間の敵対」の解説
社会と民族間の敵対も戦闘に影響を及ぼした。当局に対する不満のはけ口として、農村部が都市部と敵対した。半島戦争の問題とともに、数年間の不作も起因となったイダルゴの農民反乱がその一例であった。イダルゴははじめケレタロの自由派都会人の1人であり、フンタの設立を模索していた。フンタ設立の計画が露見すると、農村部のバヒオ(英語版)で軍を招集、農村部に住む者の利害が都会人のそれより優先されることとなった。ベネズエラでも同じような緊張が生じており、スペインからの移民ホセ・トマス・ボベス(英語版)が非正規ながらも強力な王党派軍勢をヤネロ(英語版)から招集した。このとき、ヤネロが奴隷と白人の混血であるのを利用して、白人地主への恨みを煽動して従軍を促進した。ボベスらはスペイン人士官の命令をたびたび無視した上に、追放されたスペイン王家の復位にもさほど熱が入らず、むしろ自身の権力保持に熱心だった。さらに、アルト・ペルーではレプブリケタ(スペイン語版)が独立派の全滅を防ぐべく、公権剥奪された農村部住民や先住民族と同盟したが、多くの市民を有する主要都市を奪取することはついぞできなかった。 スペイン人とイスパノアメリカ人の紛争がだんだんと激しくなったが、その背景には階級格差があったり、愛国派の指導者が民族主義を生むために煽動したものだったりした。例えば、イダルゴの軍勢はガチュピン(スペイン語版)(半島人(英語版)の蔑称)を国から消し去るよう焚きつけられて、グアナフアトのアロンディガ・デ・グラナディタス(英語版)で避難していたクリオーリョと半島人数百人を無差別虐殺した。シモン・ボリバルも1813年のすばらしき闘争(英語版)においてデクレト・デ・ゲーラ・ア・ムエルテ(英語版)を発して、王党派のイスパノアメリカ人はわざと助命するが中立を保った半島人でも殺害するとした。イスパノアメリカ人と半島人を分裂させることが目的だったこの政策はボベスの残虐行為の背景となった。ただし、王党派も愛国派もその旗印を不平不満な人々を糾合するための口実にしており、政治主張の提唱も撤回も速かった。例えば、ベネズエラのヤネロは1815年以降にエリート層や都市部が王党派で固まると自身も王党派に転向、結果的にベネズエラを独立に導いたのはメキシコの国王軍だった。
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