植民地支配以前のショチミルコ
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「ソチミルコ」の記事における「植民地支配以前のショチミルコ」の解説
ショチミルコ(ソチミルコ)における最初の集落は先古典期末期(紀元前200年 - 紀元250年)頃に遡る。このことから、彼らの文化は、同時期にメキシコ盆地南部で栄えた最初の都市であるクィクィルコ(Cuicuilco)と関わりのあったことが考えられる。 しかし古典期に入ると、メキシコ盆地の人口はテスココ湖北東部の大都市テオティワカンに集中し、ショチミルコは盆地の大半と同様に打ち捨てられ、「神々の都市」テオティワカンの支配下に置かれた。6世紀から7世紀にテオティワカンが崩壊した後、ショチミルコの地はテオティワカンの旧住民やメソアメリカ北部から来たチチメカ族などを受け入れた。チチメカ族は古典期末期の大旱魃で故郷を捨てて南のメキシコ盆地へと逃れてきており、同じくメソアメリカ北部から来た遊牧民などを移民として多く受け容れていた。 このほかにショチミルコに移住してきた民族に、ショチミルカ族(Xochimilcas)がいる。彼らは10世紀から14世紀の間にメソアメリカ中心部へとやってきて、10世紀には祭祀の中心地であるクァイラマ(Cuailama)を建てた。現在のソチミルコ付近の山地には先コロンブス期の絵文字などが多く見つかっており、彼らの宗教儀式に関係があるものとみられている。ショチミルカ族は、ソチミルコ湖湖岸に沿った地域、トラウアック(Tláhuac)やミスキック(Mixquic)といった湖中の島々、アフスコ山(Ajusco)を中心とするアフスコ山地やチチナウツィン山(Chichinauhtzin)を中心とするチチナウツィン山地に至る地域に広く住んでいた。ショチミルカ族は、チナンパ農法の発明者でありショチミルコの町の建設者でもあると信じられてきた。またチナンパの発明者ではなく、古くからおこなわれてきた農法を改良したという見方もある。ナワトラカ族(Nahuatlacas)がこの地に来た11世紀から14世紀には、チナンパの技術は最盛期に達している。チナンパはもとはメキシコ中部の湖水地帯の農法であり、アシなどの長い草を刈りとって積み上げたものを水面に浮かせて編み枝で囲い、湖底から集めてきた泥をその上に載せ浮島のようにし、その上に穀物や野菜などを栽培するというものであった。泥の養分と周りの湖の水により作物をよく育てることができた。彼らはチナンパの上に柳の木を植えたが、柳は早く成長してその根を湖底にまで下ろして根を張ったので、これでチナンパを一定の場所に固定することができた。 アステカ族(メシカ族)は、ショチミルカ族のことを、メキシコ盆地の湖周辺の町に住む他の部族同様、遠い親戚のようなものと考えてきた。彼らは同じ神話上の故郷チコモストク(Chicomoztoc、「七つの洞窟の場所」)を共有していた。伝説によれば、チコモストクの七つの洞窟には異なった部族が暮らしていたが、その中にショチミルカ族とアステカ族がいた。チコモストクからアストランへ出て暮らしていた彼らは、やがてアストランを去り南へ向かい、メキシコ高原を放浪した。しかしアステカ族がメキシコ盆地にたどり着いたとき、ショチミルカ族はすでに盆地の南部に定着していたという。アステカ族はやがて、クルワカン市(Culhuacán)のトラトアニ(tlatoani、王)であったコシュコシュ(Coxcox)の手下となっていたショチミルコ市とトラウアック市に宣戦した。1323年にアステカはショチミルコのトラトアニであったアカトナリ(Acatonalli)を破った。彼らはクルワカンの支配を離れ、アステカの王はクルワカンとの同盟の証としてコシュコシュの娘イランクエイトル(Ilancueitl)を妃として迎えた。しかしアステカがシペ・トテックへの生贄に彼女をささげたために、アステカとクルワカンの間の敵意が増した。クルワカンはアスカポツァルコ(現在のメキシコシティ北端)のテクパネカ族(Tecpanecas)と結び、1367年にアステカを破った。 1376年、テクパネカの支配下でテノチティトラン市を築いていたアステカは、再びショチミルコを破った。しかしショチミルコはアステカの支配下とならず、テクパネカが支配するアスカポツァルコの領土に併合された。アステカはテクパネカと同盟を結び服従していたが、テスココ族と結んで、テクパネカの王位を簒奪したマシュトラ(Maxtla)に対し戦いを挑んだ。1428年、アステカはテクパネカに対して勝利した。その2年後、ショチミルコは三度アステカの攻撃を受けた。この戦いは決定的なアステカの勝利に終わり、ショチミルコはテノチティトランを都とするアステカ王国に併合された。ショチミルコの民はアステカの首都建設やその他の土木事業などでの労働を強制され、チャプルテペック(Chapultepec)の水道、イスタパラパの大通り、ネサワルコヨトルの石堤(albarradón)などを建設している。
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