東京市長・憲政擁護運動
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明治31年(1898年)6月21日、進歩党と自由党が合同して憲政党が結成された。大隈と板垣に大命が降下し、第1次大隈内閣(が成立した。尾崎は40歳の若さで文部大臣として入閣した。この際、大隈の保証によって明治天皇が懲戒を免除する裁可を行っている。そのうちに第6回総選挙は同年8月14日に行われ、憲政党は圧倒的に勝利したが内部抗争や猟官運動が露骨となり、星亨が大隈を攻撃するなど内閣は大揺れに揺れた。8月22日、尾崎は帝国教育会からの依頼により神田一ツ橋の同会で演説したが、大隈内閣の外相候補でもあった伊東巳代治の経営する『東京日日新聞』に言葉尻をとらえられて攻撃された(共和演説事件)。倒閣を目指していた星亨ら自由党派閥による尾崎攻撃は10月頃から激しさを増し、10月21日、板垣が尾崎の罷免を上奏した。これを受けた天皇は大隈と尾崎に不信感を持っていたこともあり、首相である大隈に是非を問うこともなく辞職を求めた。10月24日、尾崎は病気を理由に文相を辞任し、後任に星亨と江原素六を挙げていたが、その後任を巡って憲政党は分裂、隈板内閣も総辞職した。 第2次山縣内閣が発足すると、憲政本党の最高幹部に属していたが、伊藤博文を訪問して義和団の乱以来のロシア帝国との関係を話し合って意気投合。立憲政友会の創立に参加して憲政本党を離脱、政友会の総務委員の一人となり、尾崎は星亨と共に院内総務を任じられた。桂内閣が発足すると党務執行の常務委員の5人に選ばれた(尾崎、原敬、星亨、片岡健吉、大岡育造)が、まもなく星が暗殺され、党務の中心は尾崎と松田正久の2名に命じられた。しかし、その後に伊藤とも対立して離党。片岡健吉や加藤高明もこれに倣い、同志研究会を組織し、その後は猶興会などを経て政友会に復党と、めまぐるしく所属政党を変遷する。 明治36年(1903年)から同45年(1912年)まで東京市長に就任。尾崎の東京市長在任中に、東京市が東京鉄道を買収し、東京市電気局を設置した。夫人の逝去を受けて尾崎三良の娘・テオドラ(日本名は英子。尾崎三良と英国人日本語教師ウイリアム・ウィルソンの娘との間に生まれた)と再婚したが、ハーフの英子との結婚は尾崎に対する種々の誤解を生じさせたようである。結婚後は英子の勧めもあって駐日英国公使館員ジョン・ガビンズから軽井沢の土地を購入し別邸「莫哀山荘」(莫哀は「哀しみのない」という意味)を設け、莫哀山荘は軽井沢の名所とさえなった(後述)。 明治37年(1904年)2月、日露戦争の開戦後に第1次西園寺内閣が発足。西園寺公望が桂太郎の反撃を受けて総辞職し、第2次桂内閣が発足すると、明治41年(1908年)12月21日、尾崎は猶興会を改組して紅葉館で河野広中らと又新会を成立させるが、自身は総裁・西園寺の下で再び政友会に復帰する。他方、犬養毅や大石らは立憲国民党を結成した。この時、幸徳秋水らの大逆事件と南北正閏問題が起こり、桂内閣は西園寺を推薦して総辞職した。 西園寺公望が二個師団増設案から陸軍大臣・上原勇作の声明・辞任で退陣に追い込まれ、長州軍閥によって内務大臣となっていた桂が擁立されて桂園時代が終わると、桂太郎が宮中・府中の別を乱るものと難じ全国的な国民運動が巻き起こった。大正元年(1912年)の憲政擁護運動では立憲政友会を代表して質問を行い、「玉座を胸壁とし詔勅を弾丸とするもの」と首相・桂を糾弾する演説を行って大正政変のきっかけとなった。これらの集会は全国で行われ、各地に咢堂会が生まれ、尾崎が壇上に立つと聴衆からは「脱帽々々」と喝采が鳴り止まず、しばしば口を開かせなかった。 第3次桂内閣退陣後、山本権兵衛が組閣すると、政変後に自党の利益を優先しようとする政友会の方針に反発して政友会を離党。以後、政友倶楽部、亦楽会、中正会、憲政会、革新倶楽部と移る。 また、この時期に日本の若年層の、より一層の教育レベルの向上を目標として河野正義に請われ、「大日本国民中学会」の会長を務める。当時レベルが玉石混淆であった「講義本」をシステム化し、日本最高の教授陣を集めてこの再編纂にあたらせた。また自らも教科書の執筆をし、全国の中学生の学力向上に尽力した。国民中学会の「講義本」は日本最高レベルと評され、通教生が続々と有名公立中学校へ編入するなど実力が証明された。また支部を甲種中学校に格上げ創立するなど全国的な教育改革に邁進した。(⇒「大日本国国民中学会」参照)
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