明慧寺とは? わかりやすく解説

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明慧寺

読み方:メイケイジ(meikeiji)

宗派 真言宗智山派

所在 埼玉県岩槻市

本尊 不動明王

寺院名辞典では1989年7月時点の情報を掲載しています。

明慧寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 03:17 UTC 版)

鉄鼠の檻」の記事における「明慧寺」の解説

円 覚丹(まどか かくたん68歳。明慧寺貫主禅師。明慧寺のトップであり、非常に厳かな雰囲気人物弟子は博行と托雄。昭和3年入山小坂 了稔(こさか りょうねん) 60歳四知事・直歳臨済宗外界関わりを持つ唯一の僧侶で、他の知事からは破戒僧と言われていた。昭和3年入山。元々は鎌倉立派な寺の僧だったが、上に疎まれて明慧寺に島流しにされてきた。明慧寺での暮らしが気に入らず世間曝して寺を壊そうとしていたとされ、常々寺を開いて経済的に自立すべきと云っており、帝大脳波測定検査には乗り気だった。 「無戒」こそ真の禅だと考え、何につけて反発し否定してかかる人物で、島流しになったのもその性格災いしたためであった小手先技術になっていた公案を禅の堕落だと嫌い、朝課に出る以外は野放図で、立場良いことに月に一度は山を降り発見され書画骨董売り払う事業手を出していた。 今川骨董品受け渡し約束していたが、行方不明になり、4日後に坐禅組んだまま凍り付いた撲殺遺体仙石楼の庭に忽然と現れる。第1の犠牲者中島 祐賢なかじま ゆうけん56歳四知事・維那曹洞宗。了稔とは比較友好な関係だった。瞋恚煩悩断ち難い(自分怒り易い)と自覚している。昭和10年入山道元禅師のように修行して悟ることを理想としており、自分修行完成のみに執心し組織教団修行役に立たない戯論だと厭うている。 桑田 常信(くわた じょうしん) 48歳四知事・典座。曹洞宗実家は寺ではなく現実逃避大学生だった昭和元年に自ら望んで出家した厳格な師の下で10年修行するもどこにも到れず、そのまま昭和10年に名慧寺へと遣わされる大戦経て高僧幾ら厳し修行積んで世の中は少しも良くならないことで迷い感じている。了稔を嫌い、氷炭入れずという関係であったが、脳波測定実験に関してだけは意見一致していた。実験賛同した了稔と泰全が相次いで殺害されたことで、次は自分殺されるではないか恐慌来たし鉄鼠憑かれ自分殺される怯える和田 慈行(わだ じあん) 28歳四知事・監院であり、知客兼任する昭和13年13歳入山した明慧寺生え抜きの僧。臨済宗尼僧見紛うばかりの美僧。智念禅師の孫で、祖父弟子の慧行のさらに弟子孫弟子)に当たる。厳か冷徹な精神戒律至上主義者であり、外界接することを極端に嫌う。それゆえ特に了稔を嫌っていた。中堅の若い僧侶次々出征し戦死していったため、戦中20歳程の若さ首座から監院に任じられた。 大西 泰全おおにし たいぜん88歳。大正15年最初住職として明慧寺に入山した人物であり、最年長老師臨済宗好好爺風の枯れた老人。智念禅師弟子一人飄々とした面があり洒脱で、他の僧侶たちと比べると話が通じる。禅に科学伝統神秘性必要ないという考えから帝大脳波検査賛同していた一人で、実験によって明慧寺の幻想拭い去り白日元に曝そうとしていたとされる。 寺を訪れた関口らと会談して了稔の為人について話し禅宗についての簡単な問答をするが、翌日午後に便所逆さま突っ込まれ屍体となって発見される。第2の犠牲者加賀 英生(かが えいしょう18歳。祐賢の侍僧入山4年で最も新参の僧。戦争実家の寺と家族失ったため、了稔の口利き昭和24年入山した。祐賢を7歳死別した父に重ねて慕っている。 牧村 托雄(まきむら たくゆう) 22歳常信侍僧以前は博行の侍僧をしていた。貫主弟子秩父にあった照山院の息子だが、父の代で廃寺になっている杉山 哲童すぎやま てつどう) 28歳関東大震災孤児で、乳飲み子の頃に仁秀拾われ育てられた後、明慧寺の僧侶となった。非常に大柄だが、少し知能遅れている。読み書きはできるが学力小学生並みで、言葉も不自由ではあるものの、勤勉に作務をして、公案一生懸命に考えている。 菅野 博行(すがの はくぎょう) 70歳貫主弟子昭和16年入山入山から3、4年で、高齢体調崩した泰全から典座の役を引き継ぎ、畑で薬草栽培なども手掛けていたが、昭和27年の夏、ある事件きっかけ発狂して土牢軟禁され警察が来たときも秘匿されていた。実は『姑獲鳥の夏』で戦時中久遠寺医院失踪した小児科医菅野博行(すがの ひろゆき)。 仁秀じんしゅう) 明慧寺のすぐ近く小屋に住む老人禿頭で躰も顔も浅黒く襤褸巻きつけた薄汚い身なりだが、狡猾さとは縁遠い人懐こそうな顔つきをしている。哲童と鈴を保護し育てた。明慧寺から食料恵んでもらっている。物心ついた頃から今まで明慧寺の裏山地細々と畑を作り仙人のような暮らしをしている。明慧寺が廃寺だった頃から住んでおり、戸籍すらないという謎の人物。慈行から疎まれている。 鈴(すず仁秀養っている少女。いつも振り袖着ている。十数年前から唄う姿を里の者に目撃されており、山を訪れる者に「帰れ」と警告する123年前崖下衰弱していたところを仁秀拾われ守り袋にあった鈴の名を付けられる見た目123歳程で、失踪当時松宮鈴子容姿瓜二つ。そのため、久遠寺らは鈴子13歳産んだではないか考える。 和田 智稔(わだ ちねん) 故人明治28年に明慧寺を発見した僧侶京都古刹住職臨済宗。泰全の師。慈行の師の師であり、慈行の実祖父生前かなりの影響力持っていた人物で、息のかかった寺はどれも少なからず明慧寺に関わりがある。庭造り名人で、仙石楼の庭も改修した取り憑かれたように明慧寺に通い詰め記録調べ、寺を含む山の土地開発会社の手渡って諦めず売り出される即座に入山したが、来た途端に亡くなったため、代わりに泰全が住職として入山した。 「後巷説百物語」に収録される「風の神」にも登場

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明慧寺(みょうけいじ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 03:17 UTC 版)

鉄鼠の檻」の記事における「明慧寺(みょうけいじ)」の解説

物語の舞台となる寺。強羅温泉から徒歩数時間ほどの山中建立されている。由緒あるのようだが、地図載っておらず、京極堂存在知らなかった外界との接触好まない伽藍様式は古図に残る中世五山寺院似ていて、相当に年代の古い物と推測される詳細不明

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