明慧寺
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円 覚丹(まどか かくたん) 68歳。明慧寺貫主・禅師。明慧寺のトップであり、非常に厳かな雰囲気の人物。弟子は博行と托雄。昭和3年入山。 小坂 了稔(こさか りょうねん) 60歳。四知事・直歳。臨済宗。外界と関わりを持つ唯一の僧侶で、他の知事からは破戒僧と言われていた。昭和3年入山。元々は鎌倉の立派な寺の僧だったが、上に疎まれて明慧寺に島流しにされてきた。明慧寺での暮らしが気に入らず、世間に曝して寺を壊そうとしていたとされ、常々寺を開いて経済的に自立すべきと云っており、帝大の脳波測定検査には乗り気だった。 「無戒」こそ真の禅だと考え、何につけても反発し否定してかかる人物で、島流しになったのもその性格が災いしたためであった。小手先の技術になっていた公案を禅の堕落だと嫌い、朝課に出る以外は野放図で、立場を良いことに月に一度は山を降り、発見された書画骨董を売り払う事業に手を出していた。 今川と骨董品の受け渡しを約束していたが、行方不明になり、4日後に坐禅を組んだまま凍り付いた撲殺遺体が仙石楼の庭に忽然と現れる。第1の犠牲者。 中島 祐賢(なかじま ゆうけん) 56歳。四知事・維那。曹洞宗。了稔とは比較的友好な関係だった。瞋恚煩悩は断ち難い(自分は怒り易い)と自覚している。昭和10年入山。 道元禅師のように修行して悟ることを理想としており、自分の修行の完成のみに執心し、組織や教団は修行の役に立たない戯論だと厭うている。 桑田 常信(くわた じょうしん) 48歳。四知事・典座。曹洞宗。実家は寺ではなく、現実逃避で大学生だった昭和元年に自ら望んで出家した。厳格な師の下で10年修行するもどこにも到れず、そのまま昭和10年に名慧寺へと遣わされる。大戦を経て、高僧が幾ら厳しい修行を積んでも世の中は少しも良くならないことで迷いを感じている。了稔を嫌い、氷炭相入れずという関係であったが、脳波測定実験に関してだけは意見が一致していた。実験に賛同した了稔と泰全が相次いで殺害されたことで、次は自分が殺されるのではないかと恐慌を来たし、鉄鼠に憑かれ、自分が殺されると怯える。 和田 慈行(わだ じあん) 28歳。四知事・監院であり、知客も兼任する。昭和13年に13歳で入山した明慧寺生え抜きの僧。臨済宗。尼僧と見紛うばかりの美僧。智念禅師の孫で、祖父の弟子の慧行のさらに弟子(孫弟子)に当たる。厳かで冷徹な精神の戒律至上主義者であり、外界と接することを極端に嫌う。それゆえ特に了稔を嫌っていた。中堅の若い僧侶が次々出征して戦死していったため、戦中に20歳程の若さで首座から監院に任じられた。 大西 泰全(おおにし たいぜん) 88歳。大正15年、最初の住職として明慧寺に入山した人物であり、最年長の老師。臨済宗。好好爺風の枯れた老人。智念禅師の弟子の一人。飄々とした面があり洒脱で、他の僧侶たちと比べると話が通じる。禅に科学も伝統も神秘性も必要ないという考えから帝大の脳波検査に賛同していた一人で、実験によって明慧寺の幻想を拭い去り、白日の元に曝そうとしていたとされる。 寺を訪れた関口らと会談して了稔の為人について話し、禅宗についての簡単な問答をするが、翌日の午後に便所に逆さまに突っ込まれた屍体となって発見される。第2の犠牲者。 加賀 英生(かが えいしょう) 18歳。祐賢の侍僧。入山4年で最も新参の僧。戦争で実家の寺と家族を失ったため、了稔の口利きで昭和24年に入山した。祐賢を7歳で死別した父に重ねて慕っている。 牧村 托雄(まきむら たくゆう) 22歳。常信の侍僧。以前は博行の侍僧をしていた。貫主の弟子。秩父にあった照山院の息子だが、父の代で廃寺になっている。 杉山 哲童(すぎやま てつどう) 28歳。関東大震災の孤児で、乳飲み子の頃に仁秀に拾われ育てられた後、明慧寺の僧侶となった。非常に大柄だが、少し知能が遅れている。読み書きはできるが学力は小学生並みで、言葉も不自由ではあるものの、勤勉に作務をして、公案を一生懸命に考えている。 菅野 博行(すがの はくぎょう) 70歳。貫主の弟子。昭和16年入山。入山から3、4年で、高齢で体調を崩した泰全から典座の役を引き継ぎ、畑で薬草の栽培なども手掛けていたが、昭和27年の夏、ある事件をきっかけに発狂して土牢に軟禁され、警察が来たときも秘匿されていた。実は『姑獲鳥の夏』で戦時中に久遠寺医院を失踪した元小児科医・菅野博行(すがの ひろゆき)。 仁秀(じんしゅう) 明慧寺のすぐ近くの小屋に住む老人。禿頭で躰も顔も浅黒く、襤褸を巻きつけた薄汚い身なりだが、狡猾さとは縁遠い人懐こそうな顔つきをしている。哲童と鈴を保護し、育てた。明慧寺から食料を恵んでもらっている。物心ついた頃から今まで明慧寺の裏の山地で細々と畑を作り、仙人のような暮らしをしている。明慧寺が廃寺だった頃から住んでおり、戸籍すらないという謎の人物。慈行から疎まれている。 鈴(すず) 仁秀が養っている少女。いつも振り袖を着ている。十数年前から唄う姿を里の者に目撃されており、山を訪れる者に「帰れ」と警告する。12、3年前に崖下で衰弱していたところを仁秀に拾われ、守り袋にあった鈴の名を付けられる。見た目は12、3歳程で、失踪当時の松宮鈴子と容姿が瓜二つ。そのため、久遠寺らは鈴子が13歳で産んだ娘ではないかと考える。 和田 智稔(わだ ちねん) 故人。明治28年に明慧寺を発見した僧侶。京都の古刹の住職。臨済宗。泰全の師。慈行の師の師であり、慈行の実祖父。生前かなりの影響力を持っていた人物で、息のかかった寺はどれも少なからず明慧寺に関わりがある。庭造りの名人で、仙石楼の庭も改修した。 取り憑かれたように明慧寺に通い詰めて記録を調べ、寺を含む山の土地が開発会社の手に渡っても諦めず、売りに出されると即座に入山したが、来た途端に亡くなったため、代わりに泰全が住職として入山した。 「後巷説百物語」に収録される「風の神」にも登場。
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明慧寺(みょうけいじ)
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物語の舞台となる寺。強羅温泉から徒歩で数時間ほどの山中に建立されている。由緒ある寺のようだが、地図に載っておらず、京極堂も存在を知らなかった。外界との接触を好まない。伽藍の様式は古図に残る中世の五山寺院に似ていて、相当に年代の古い物と推測されるが詳細は不明。
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