明政会事件
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1929年4月、後藤新平が脳溢血により死去。翌1930年1月、もと明政会所属議員の藤原米造が死去し、故人の代理人が検事局に告発したことをきっかけに、鶴見が島徳蔵ら政友会の関係者から、1928年4月召集の第55臨時議会において民政党が提出した田中義一内閣不信任案に反対することを条件に金銭を受け取った疑惑が持ち上がった(明政会事件)。疑惑の中、同年2月に行われた第17回衆議院議員総選挙に岡山第1区から立候補するも、落選。同年3月に弟の鶴見定雄が大阪刑務所に収監され、鶴見も大阪地裁検事局で取調べを受けた。同年5月、鉄道省からの事務委託を受けて米国・カナダへ講演旅行に出発し、翌1931年9月までの約1年4ヶ月間、帰国せずに各地を講演して回る。この頃一時期、不眠症、執筆不振となるが、旅行の後半には著述に没頭するようになった。 1931年10月、満州事変の後に上海で開催された第4回太平洋会議に出席し、満州事変における日本の行動を擁護。同年11-12月、満州視察。1932年1月には、満州の問題における日本の立場に関する講演旅行のため、再び渡米。同年6月、欧州へ渡り、各国で日本事情について講演。米国を経由して1933年1月に帰国した。 1933年1月に帰国してから約3年間、編集室を市政会館において後藤新平伝を執筆、並行して『プルターク英雄伝』を翻訳。1933年10月に新渡戸稲造が死去し、一高などで追悼演説を行う。1934年『プルターク英雄伝』発行、1935年夏『後藤新平』全四巻脱稿。 明政会事件の報道の中では、鶴見が「弟に罪をなすりつけてアメリカへ逃げた」と報道した新聞もあり、鶴見の長男・俊輔も鶴見が新自由主義協会の活動を放擲してアメリカへ逃げたと思っていた。満州事変以降、日本では政界に対する軍部の圧力が強まり、同協会を含め自由主義者や第三党の活動は影を潜めた。新自由主義協会の機関誌「新自由主義」は1933年9月に発禁となった。
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