日吉台遺跡群の調査
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1926年(大正15年)に東横線日吉駅が開業してから1930年代(昭和5年~)にかけて駅周辺の開発と慶應義塾大学キャンパスの建設工事が始まり、それと共に日吉台とその周辺で多数の遺跡が発見されるようになった。 1930年(昭和5年)6月3日、遺跡分布確認のための踏査が同大教員であった柴田常恵・橋本増吉らにより実施され、A地区で「矢上一本松古墳(日吉台1号墳)」が発見された(日吉台古墳群)。この時、柴田は台地上の複数地点で弥生土器を採取し、弥生時代集落遺跡の存在をも予見した。 1931年(昭和6年)5月には、柴田常恵・橋本増吉・森貞成らによって、新たに日吉台2号墳(F地区)・3号墳(H地区)・4号墳(L地区)が発見され、5月31日と6月7日に日吉台1号墳・3号墳で初の発掘調査が行われた。 1931年(昭和6年)末から翌1932年(昭和7年)4月にかけて大学キャンパスの建設が本格化すると、工事に伴い慶應第1校舎(C地区)や陸上競技場建設地(D地区)、東急日吉駅(B地区、現・日吉東急avenue)一帯などで弥生時代の竪穴住居跡が発見され、橋本増吉・間崎万里・松本信廣らによって発掘調査された。これ以降、日吉台における弥生時代集落の調査・研究が始まった。なおこの際、日吉台4号墳と新発見の日吉台5号墳(K地区)も発掘調査された。これらと同じ時期に、陸上競技場建設地付近では鏡(八稜鏡)や室町時代の板碑など、古代~中世の遺物が出土したことが報告されている。 1936年(昭和11年)7月の慶應義塾大学三田史学会によるK地区の発掘調査では、多数の竪穴住居跡が検出された。この内の第111号住居は長径9.4メートルの隅丸方形住居で、発見当時は弥生時代住居跡として日本最大規模であり、当時話題となった。この第111号住居跡および第102~105号の5軒の住居跡は、遺構壁面をコンクリートで硬めて現地保存し野外展示されている。 1940年(昭和15年)7月から1941年(昭和16年)2月には、A地区での藤原工業大学(慶應義塾大学理工学部の前身)の仮校舎建設に伴い同大教員の清水潤三により大規模な発掘調査が実施され、10軒の竪穴住居が検出されるなど、慶應義塾大学の歴史学・考古学系教員によりキャンパスとその周辺での調査研究が進展した。当時、日吉台遺跡群の調査を主導した同大教授の清水潤三は、成果報告の中で「日吉は我国考古学史上、不朽の名をとどめることとなった」と述べている。 しかし、1941年(昭和16年)12月7日に太平洋戦争が勃発すると状況が一変し、日吉キャンパスは戦争末期に旧日本海軍連合艦隊司令部の施設となった。日吉台地下にあり、現在は遺跡群に含まれている日吉台地下壕はこの時期に建造された大規模地下要塞である。その間、キャンパス内は空襲を受けて多くの施設が破壊された。1945年(昭和20年)8月の敗戦以後はアメリカ軍に接収され、1949年(昭和24年)9月末まで米軍管理下にあった。そのためこの間は日吉台遺跡群における考古学的な調査・研究はまったく実施されなかった。 慶應義塾へのキャンパス返還後は、施設復旧が最優先されたため、キャンパス内遺跡調査への関心は著しく低下したものの、1950年代から60年代までは、1951年(昭和26年)の日吉台3号墳(H地区)の再調査や、1960年(昭和35年)の浅間山古墳切り崩しに伴う調査(浅間山地区)、1963年(昭和38年)の新幹線トンネル掘削工事に伴う横穴墓の調査(南東斜面地区)、1966年(昭和41年)の弓道場建設に伴う縄文時代前期と弥生時代後期の貝塚調査(I地区)など、清水潤三を中心とした小規模な調査が続けられた。しかし、1970年代以降から大学内部では、日吉台に存在していたこれらの遺跡は、大部分が既に破壊されたとする認識が広まったとされ、キャンパス内の工事に際して事前の発掘調査が行われなくなっていった。また文化財保護法に基づいて埋蔵文化財の保護やその取扱いを指導する行政(横浜市教育委員会)側も同様の認識が定着し、保護措置を行うように指導することがなくなっていった。 そのため、1970年代から90年代にかけて、キャンパス内で校舎建替えや新校舎建設などの大規模工事が次々に行われ、中には工事現場で竪穴住居などの遺構が学生らによって目撃されていたにも関わらず、2000年代初頭に至るまでキャンパス内での発掘調査が全く行われない状況が続いた。2005年(平成17年)以降、日吉台遺跡群の調査および過去調査資料の整理・再検討を行っている慶應大教授の安藤広道(文学部民族学考古学研究室)は、この状況を「異常な事態」と評している。 2006年(平成18年)のA地区における「独立館」建設計画発表に際して、安藤広道ら文学部民族学考古学研究室は、独立館建設予定地が1931年(昭和6年)に柴田常恵が調査した日吉台1号墳や、1940年(昭和15年)に清水潤三が調査した弥生時代住居群の地点に重複しており、遺跡が残存している可能性が高いとして2007年(平成19年)3月~8月にかけて発掘調査を実施した。これにより複数の竪穴住居等の遺構が検出された。2006年(平成18年)以降、文学部民族学考古学研究室はこれ以外にも桜並木アプローチ建設やスポーツ館建設工事、日吉記念館建替え工事など、大学関係施設の工事に伴い発掘調査や工事立会調査を実施している。2006年(平成18年)から2008年(平成20年)にかけて各地区で行われた発掘調査等により、残存する弥生時代~古墳時代前期にかけての遺構が発見され、住居跡以外にも、土坑や方形周溝墓、集落を囲む環濠と見られるV字形の溝等が検出された。また、日吉台地下壕など、近代以降の戦争遺跡群についても日吉台遺跡群に含め、測量などの調査を行っている。 このように2000年代後半以降、慶應義塾大学による日吉台遺跡群の考古学的調査は復活したが、同研究室は既に同遺跡群の先史・古代の遺構については90パーセント以上が破壊されたと推定しており、今後、パッチ状に残存している僅かな箇所を注意深く調査してゆくべきとしている。
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