日吉台遺跡群の調査とは? わかりやすく解説

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日吉台遺跡群の調査

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 14:29 UTC 版)

日吉台遺跡群」の記事における「日吉台遺跡群の調査」の解説

1926年大正15年)に東横線日吉駅開業してから1930年代昭和5年~)にかけて駅周辺開発慶應義塾大学キャンパス建設工事始まり、それと共に日吉台その周辺多数遺跡発見されるようになった1930年昭和5年6月3日遺跡分布確認のための踏査同大教員であった柴田常恵橋本増吉らにより実施されA地区で「矢上一本松古墳日吉台1号墳)」が発見された(日吉台古墳群)。この時、柴田台地上の複数地点弥生土器採取し弥生時代集落遺跡存在をも予見した。 1931年昭和6年5月には、柴田常恵橋本増吉貞成らによって、新たに日吉台2号墳(F地区)・3号墳(H地区)・4号墳(L地区)が発見され5月31日6月7日日吉台1号墳3号墳で初の発掘調査が行われた。 1931年昭和6年)末から翌1932年昭和7年4月にかけて大学キャンパス建設本格化すると、工事に伴い慶應第1校舎(C地区)や陸上競技場建設地D地区)、東急日吉駅B地区、現・日吉東急avenue一帯などで弥生時代竪穴住居跡発見され橋本増吉間崎万里松本信廣らによって発掘調査された。これ以降日吉台における弥生時代集落調査・研究始まった。なおこの際日吉台4号墳と新発見日吉台5号墳(K地区)も発掘調査された。これらと同じ時期に、陸上競技場建設地付近では鏡(八稜鏡)や室町時代板碑など、古代中世遺物出土したことが報告されている。 1936年昭和11年7月慶應義塾大学三田史学会によるK地区発掘調査では、多数竪穴住居跡検出された。この内の第111号住居長径9.4メートル隅丸方形住居で、発見当時弥生時代住居跡として日本最大規模であり、当時話題となった。この第111号住居跡および第102105号の5軒の住居跡は、遺構壁面コンクリート硬め現地保存し野外展示されている。 1940年昭和15年7月から1941年昭和16年2月には、A地区での藤原工業大学慶應義塾大学理工学部前身)の仮校舎建設に伴い同大教員清水潤三により大規模な発掘調査実施され10軒の竪穴住居検出されるなど、慶應義塾大学歴史学考古学教員によりキャンパスその周辺での調査研究進展した当時、日吉台遺跡群の調査を主導した同大教授清水潤三は、成果報告の中で「日吉は我国考古学史上、不朽の名をとどめることとなった」と述べている。 しかし、1941年昭和16年12月7日太平洋戦争勃発する状況一変し日吉キャンパス戦争末期旧日本海軍連合艦隊司令部施設となった日吉台地下にあり、現在は遺跡群含まれている日吉台地下壕はこの時期建造され大規模地下要塞である。その間キャンパス内は空襲受けて多く施設破壊された。1945年昭和20年8月敗戦以後アメリカ軍接収され1949年昭和24年9月末まで米軍管理にあった。そのためこの間日吉台遺跡群における考古学的な調査・研究はまった実施されなかった。 慶應義塾へのキャンパス返還後は、施設復旧最優先されたため、キャンパス遺跡調査への関心著しく低下したものの、1950年代から60年代までは、1951年昭和26年)の日吉台3号墳(H地区)の再調査や、1960年昭和35年)の浅間山古墳切り崩しに伴う調査浅間山地区)、1963年昭和38年)の新幹線トンネル掘削工事に伴う横穴墓調査南東斜面地区)、1966年昭和41年)の弓道場建設に伴う縄文時代前期弥生時代後期貝塚調査(I地区)など、清水潤三を中心とした小規模な調査続けられた。しかし、1970年代以降から大学内部では、日吉台存在していたこれらの遺跡は、大部分が既に破壊されたとする認識広まったとされ、キャンパス内の工事に際して事前発掘調査が行われなくなっていった。また文化財保護法基づいて埋蔵文化財保護やその取扱い指導する行政横浜市教育委員会)側も同様の認識定着し保護措置を行うように指導することがなくなっていった。 そのため、1970年代から90年代にかけて、キャンパス内で校舎建替え新校舎建設などの大規模工事次々行われ中には工事現場竪穴住居などの遺構学生らによって目撃されていたにも関わらず2000年代初頭に至るまでキャンパス内での発掘調査が全く行われない状況続いた2005年平成17年以降、日吉台遺跡群の調査および過去調査資料整理再検討行っている慶應大教授安藤広道文学部民族学考古学研究室)は、この状況を「異常な事態」と評している。 2006年平成18年)のA地区における「独立館建設計画発表に際して安藤広道文学部民族学考古学研究室は、独立館建設予定地1931年昭和6年)に柴田常恵調査した日吉台1号墳や、1940年昭和15年)に清水潤三が調査した弥生時代住居群の地点重複しており、遺跡残存している可能性が高いとして2007年平成19年3月8月にかけて発掘調査実施した。これにより複数竪穴住居等の遺構検出された。2006年平成18年以降文学部民族学考古学研究室はこれ以外にも桜並木アプローチ建設スポーツ建設工事日吉記念建替え工事など、大学関係施設工事に伴い発掘調査工事立会調査実施している。2006年平成18年)から2008年平成20年)にかけて各地区で行われた発掘調査等により、残存する弥生時代~古墳時代前期にかけての遺構発見され住居跡以外にも、土坑方形周溝墓集落を囲む環濠と見られるV字形の溝等が検出された。また、日吉台地下壕など、近代以降戦争遺跡群についても日吉台遺跡群含め測量などの調査行っている。 このように2000年代後半以降慶應義塾大学による日吉台遺跡群考古学的調査復活したが、同研究室は既に同遺跡群先史古代遺構については90パーセント以上が破壊されたと推定しており、今後パッチ状に残存している僅かな箇所注意深く調査してゆくべきとしている。

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