当時の日本人の朝鮮像や出来事とは? わかりやすく解説

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当時の日本人の朝鮮像や出来事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:06 UTC 版)

巡査の居る風景」の記事における「当時の日本人の朝鮮像や出来事」の解説

明治以後の日本近代化は、西洋化欧米化へと進んでいった過程でもあり、その社会的背景から、当時文学者含めた知識人のほとんどが、「後進国」のアジア諸国未開であり模範にはなりえないと見なす風潮があった。また、明治初期には、朝鮮人に対して無礼」「生意気」「頑固」「兇暴」といった否定的イメージの「朝鮮人悪徳論」があった。 1894年明治27年)から始まった日清戦争戦った日本では清国朝鮮に対して良いイメージはなく、日本兵だけでなくメデイア従軍記者など皆が、清国朝鮮住居不潔さ異臭への嫌悪表明し、その地の人々対す蔑視偏見強かったそうした認識1905年明治38年)に日露戦争辛勝した後も続き日韓併合1910年)や満州(現・中国東北部統治満州国建国)を経て朝鮮開発事業朝鮮観光業発展するにつれ、日本人一般社会全体にも広まり新たな要素加わり多少変化しながらも朝鮮人対す蔑視イメージ自体は変らなかった。 例えば、与謝野鉄幹書いた渡韓見聞録観戦詩人』(1904年)では、朝鮮人を「今の世紀の人種とも覚えざり」、「賤しき者ども」などと形容された。2度朝鮮渡った高浜虚子長編小説朝鮮』(1911年)では、冒頭部白衣朝鮮人たちのみすぼらしさに驚く導入仕方で、その衰亡の国に憐れみ感じると同時に日本の統治によって発展していく朝鮮人嘆美しつつ日本人としての誇り初め感じたことが描かれた。 平壌訪れた徳富蘆花も『死の蔭に』(1917年)の中で、痩せた田にいる農夫らが寒い冬も同じ白衣でいる姿を「見た寒く、昼見て亡国亡霊、葬にいる民を象徴したよう」と形容した。木下杢太郎の『朝鮮風物記』(1920年)では、朝鮮人民が芸術文化面(詩文才能創造力)において古昔支那人匹敵するものではなかっただろうと記され田山花袋の『満鮮の行楽』(1924年)も、京城への失望感漏らした。 これら文士を含む日本人朝鮮紀行文には、「禿山の国」「赭土の国」といった文言多く散見され総じて長煙管」「白衣姿」「怠惰」「貧乏」「廃頽」「文弱」「無気力」という朝鮮人対する負のイメージ一般的に定着していた。その劣等朝鮮イメージは、優れた帝国日本による貧弱な朝鮮保護統治という政治的正当性認識にも繋がっていた。そして一般日本人が、開発され朝鮮居住するにつれて二者間で起こる民族的な亀裂深刻化し、「三・一運動」(1919年)や「間島事件」(1920年)などの抗日闘争発生したその頃植民地政策は「武断政治」から「文化政治」に移り変り、「一視同仁」という「同化政策」(朝鮮人日本人同化させる政策)がなされ、1919年大正8年)の総督府官制改革の際、警察局中に警部補設けて朝鮮人巡査ではなく巡査」として扱われるようになった。しかし実際に朝鮮人巡査給料日本人巡査半分程度で、署長任免により職の保障が不安定であったが、日本支配機構の側にいた朝鮮人巡査は、朝鮮人民衆からは蔑視対象嫌われていたという。 また日本人と同じ学校教育推奨され中等高等大学では、日本語堪能優秀な朝鮮人学生入学許可されるようになり、「内鮮一体」として内地人(日本人)と朝鮮人との婚姻奨励する政策や、皇民化行われていた。しかしながら一般民衆レベルでは日本人朝鮮人との民族ギャップは埋まらず、「斎藤実朝鮮総督暗殺未遂事件」(姜宇奎による南大門駅前広爆破事件)などもあった。 そうした抗日闘争から、朝鮮人弁護する柳宗悦の『朝鮮人を想ふ』(1919年)や、当時日本隆盛となりつつあったプロレタリア文学系の中西伊之助による、社会主義者日本人主人公日本植民地政策疑問視する内容作品不逞鮮人』(1922年)なども書かれた。 抗日闘争に関わった多く朝鮮人民族運動家は、その後中国の上海に集結し大韓民国臨時政府樹立宣言した。しかし運動方針めぐって李承晩安昌浩李東輝指導的活動家内部抗争絶えず、その後弱体化していった。 1923年大正12年9月に、内地日本)で起こった関東大震災混乱の際には、被災地朝鮮人暴動の噂が流れ、それに対処しよう自警団東台倶楽部」が組織された。この時に自警団参加していた芥川龍之介発案で、丸太ハシゴ固定させて道路置いたというエピソードもあった。そうした疑心暗鬼混乱の中、朝鮮人社会主義者無政府主義者たちが、警察官自警団によって殺害される関東大震災朝鮮人虐殺事件」なども起こった。 それら事件のうち、「斎藤実朝鮮総督暗殺未遂事件」、「関東大震災朝鮮人虐殺事件」などが『巡査の居る風景』の題材として取り入れられている。当時京城中学2年だった中島敦が、関東大震災時の朝鮮人虐殺事件の報を京城の地で耳にしたのか、あるいは内地東京帰国後に知ったのか具体的に定かではないが、状況的にみて帰国後、第一高等学校入学してから知ったではないか推察されている。 1926年大正15年)に京城中学校修了した中島日本に帰国した2年後1928年昭和3年)には、治安維持法により日本共産党などのコミンテルン活動員を多数検束検挙する三・一五事件」が起きたそうした事件関連する張作霖爆殺事件」など、当時中国社会的状況取り入れた未完小説北方行』(1933年頃-1937年執筆)も中島書いている。 中島帰国後に得たアジアに関する様々な知識照らしながら、中学時代朝鮮見聞反芻し、『巡査の居る風景』や『虎狩』など朝鮮舞台にした作品形成したものと推察されている。

※この「当時の日本人の朝鮮像や出来事」の解説は、「巡査の居る風景」の解説の一部です。
「当時の日本人の朝鮮像や出来事」を含む「巡査の居る風景」の記事については、「巡査の居る風景」の概要を参照ください。

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