当時の日本人の朝鮮像や出来事
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「巡査の居る風景」の記事における「当時の日本人の朝鮮像や出来事」の解説
明治以後の日本の近代化は、西洋化・欧米化へと進んでいった過程でもあり、その社会的背景から、当時の文学者を含めた知識人のほとんどが、「後進国」のアジア諸国は未開であり模範にはなりえないと見なす風潮があった。また、明治初期には、朝鮮人に対して「無礼」「生意気」「頑固」「兇暴」といった否定的イメージの「朝鮮人悪徳論」があった。 1894年(明治27年)から始まった日清戦争を戦った日本では、清国や朝鮮に対して良いイメージはなく、日本兵だけでなくメデイア、従軍記者など皆が、清国・朝鮮の住居の不潔さや異臭への嫌悪を表明し、その地の人々に対する蔑視や偏見が強かった。 そうした認識は1905年(明治38年)に日露戦争に辛勝した後も続き、日韓併合(1910年)や満州(現・中国東北部)統治(満州国建国)を経て朝鮮の開発事業・朝鮮観光業が発展するにつれ、日本人の一般社会全体にも広まり、新たな要素が加わり多少変化しながらも朝鮮人に対する蔑視イメージ自体は変らなかった。 例えば、与謝野鉄幹が書いた渡韓見聞録『観戦詩人』(1904年)では、朝鮮人を「今の世紀の人種とも覚えざり」、「賤しき者ども」などと形容された。2度朝鮮に渡った高浜虚子の長編小説『朝鮮』(1911年)では、冒頭部で白衣の朝鮮人たちのみすぼらしさに驚く導入の仕方で、その衰亡の国に憐れみを感じると同時に日本の統治によって発展していく朝鮮人を嘆美しつつ日本人としての誇りを初めて感じたことが描かれた。 平壌を訪れた徳富蘆花も『死の蔭に』(1917年)の中で、痩せた田にいる農夫らが寒い冬も同じ白衣でいる姿を「見た眼寒く、昼見ても亡国の亡霊、葬にいる民を象徴したよう」と形容した。木下杢太郎の『朝鮮風物記』(1920年)では、朝鮮人民が芸術文化面(詩文の才能や創造力)において古昔も支那人に匹敵するものではなかっただろうと記され、田山花袋の『満鮮の行楽』(1924年)も、京城への失望感を漏らした。 これら文士を含む日本人の朝鮮紀行文には、「禿山の国」「赭土の国」といった文言が多く散見され、総じて「長煙管」「白衣姿」「怠惰」「貧乏」「廃頽」「文弱」「無気力」という朝鮮人に対する負のイメージが一般的に定着していた。その劣等的朝鮮イメージは、優れた帝国日本による貧弱な朝鮮の保護統治という政治的正当性の認識にも繋がっていた。そして一般の日本人が、開発された朝鮮に居住するにつれて、二者間で起こる民族的な亀裂が深刻化し、「三・一運動」(1919年)や「間島事件」(1920年)などの抗日闘争も発生した。 その頃の植民地政策は「武断政治」から「文化政治」に移り変り、「一視同仁」という「同化政策」(朝鮮人を日本人と同化させる政策)がなされ、1919年(大正8年)の総督府官制の改革の際、警察局の中に警部補を設けて朝鮮人も巡査補ではなく「巡査」として扱われるようになった。しかし実際には朝鮮人巡査の給料は日本人巡査の半分程度で、署長の任免権により職の保障が不安定であったが、日本の支配機構の側にいた朝鮮人巡査は、朝鮮人民衆からは蔑視対象で嫌われていたという。 また日本人と同じ学校教育が推奨され、中等・高等・大学では、日本語が堪能で優秀な朝鮮人学生の入学が許可されるようになり、「内鮮一体」として内地人(日本人)と朝鮮人との婚姻を奨励する政策や、皇民化も行われていた。しかしながら、一般の民衆レベルでは日本人と朝鮮人との民族間ギャップは埋まらず、「斎藤実朝鮮総督暗殺未遂事件」(姜宇奎による南大門駅前広場爆破事件)などもあった。 そうした抗日闘争から、朝鮮人を弁護する柳宗悦の『朝鮮人を想ふ』(1919年)や、当時日本で隆盛となりつつあったプロレタリア文学系の中西伊之助による、社会主義者の日本人主人公が日本の植民地政策を疑問視する内容の作品『不逞鮮人』(1922年)なども書かれた。 抗日闘争に関わった多くの朝鮮人民族運動家は、その後中国の上海に集結し、大韓民国臨時政府の樹立を宣言した。しかし運動方針をめぐって李承晩、安昌浩、李東輝ら指導的活動家の内部抗争が絶えず、その後に弱体化していった。 1923年(大正12年)9月に、内地(日本)で起こった関東大震災の混乱の際には、被災地で朝鮮人暴動の噂が流れ、それに対処しようと自警団「東台倶楽部」が組織された。この時に自警団に参加していた芥川龍之介の発案で、丸太にハシゴを固定させて道路に置いたというエピソードもあった。そうした疑心暗鬼の混乱の中、朝鮮人、社会主義者、無政府主義者たちが、警察官や自警団によって殺害される「関東大震災朝鮮人虐殺事件」なども起こった。 それら事件のうち、「斎藤実朝鮮総督暗殺未遂事件」、「関東大震災朝鮮人虐殺事件」などが『巡査の居る風景』の題材として取り入れられている。当時京城中学2年だった中島敦が、関東大震災時の朝鮮人虐殺事件の報を京城の地で耳にしたのか、あるいは内地(東京)帰国後に知ったのか具体的には定かではないが、状況的にみて帰国後、第一高等学校に入学してから知ったのではないかと推察されている。 1926年(大正15年)に京城中学校を修了した中島が日本に帰国した2年後の1928年(昭和3年)には、治安維持法により日本共産党などのコミンテルンの活動員を多数検束・検挙する「三・一五事件」が起きた。そうした事件に関連する「張作霖爆殺事件」など、当時の中国の社会的状況を取り入れた未完小説『北方行』(1933年頃-1937年執筆)も中島は書いている。 中島は帰国後に得たアジアに関する様々な知識に照らしながら、中学時代の朝鮮見聞を反芻し、『巡査の居る風景』や『虎狩』など朝鮮を舞台にした作品を形成したものと推察されている。
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