店主の経歴と悲劇とは? わかりやすく解説

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店主の経歴と悲劇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 18:40 UTC 版)

チェイスンズ」の記事における「店主の経歴と悲劇」の解説

創業者のデイヴ・チェイスンは帝政ロシア時代1898年7月18日ウクライナ南部黒海面する港湾都市オデッサ生まれた8歳アメリカに移住成人後ニューヨーク州ポート・チェスターの実家から離れ1920年からブロードウェイレヴュー出てキャリア積んだこのころデイヴはテオ・ホリー(Theo Holly)という女優結婚したテオとはチェイスンズ開店後まで20年以上連れ添ったが、1940年代になって離婚調停中に後述する交通事故がもとで彼女は死去したデイヴ体を張ったヴォードヴィリアンとして定着すると、1923年からジョー・クックとコンビ組んで引き立て役・ぼけ役(stooge)のポジション確立した前述ミュージカルでは主役クック1931年の閉演後やがてソロとなり、映画に出るためにロサンゼルス移ったチェイスンは挫折するが、これが転じて自身の名を後世に残すチェイスンズ成功繋がった1973年6月16日74歳ロサンゼルス自宅にて死去した死因はがんだった。その後は妻のモード・キング・チェイスン(Maude King Chasen)が後継者となった。 モード・キングは1904年5月20日、現在はKFCコーポレーション本拠地として知られるケンタッキー州北西部ルイビル生まれた幼いころ母親亡くしジョージア州オールバニ2人のおばによって育てられた。12歳から日曜学校講師務め女性解放思想を持つようになると、当時ジョージア州唯一女性自立可能なキャリアであると考えた教育者志し18歳までに大学教育を受け学校教えようになった。やがて教育者としてルイビルデパート書籍コーナーがないのに意見すると、自らが売り場担当責任者になることで開設させた。それからハリー・マーティンという人物結婚し1927年ルイジアナ州ニューオリンズ一人娘ケイキャサリン)を生むが、ケイウェストバージニア州バックハノンのハリー母親姉妹あずけられた。モードハリーケイ幼いころ離婚した。その美貌セールスの腕を見込まれモードは、美容師勧め美容の道へ進んでキャリアウーマンとなり、フランスへ遊学シカゴラジオ出演写真モデルなどの活動経て、ニューヨークマンハッタンの百貨店サックス・フィフス・アベニュー内にあるビューティーサロンで、受付総支配人落ち着いていた。 モード仕事飛び回っていた時期ロサンゼルス訪れた際、ヴォードヴィリアン出身映画俳優として成功したドン・アメチーとその妻からデイヴ・チェイスンを紹介された。最初内気な性格デイヴ惹かれはしなかったというが、モードのことが気に入った彼から押されまくって付き合いがはじまる。モード南カリフォルニア住んでみたいと思っていたこともあり、家を建てて移り住んだデイヴとは後述出来事のあと1942年結婚した1973年亡き夫の後を継いでから1995年閉店までチェイスンズオーナー務め、娘と3人の孫、5人のひ孫残し2001年12月8日97歳亡くなった死因肺炎だった。二人の墓は観光客多く訪れるフォレストローン・メモリアルパーク(英語版)に並んである。 チェイスンズ閉店後、モード存命中の1990年代後半にデイヴ・チェイスンの相続人としてたびたび報道されているのが、後述するスコット・マッケイ(Scott McKay)という実業家である。「デイヴとモード・チェイスンの孫」と称されるが、モードの孫ではあってもデイヴとの血の繋がりはない。 モード1927年生んだ一人娘であるケイは、ユニバーシティー高校経てカリフォルニア大学ロサンゼルス校優秀な成績をおさめ、途中猩紅熱半年闘病生活送り左耳の聴力をほとんど失うも文学士号を取得した同校ではフラタニティのカッパ・アルファ・シータ(英語版)に所属し母親譲り美貌1949年ミスUCLAにあたるベルBelle of UCLA)にも輝いたケイ大学卒業後デヴィッド・スミスという人物結婚し1953年マイケルという長男生む直後スミスとは離婚した1960年ケイハンサムな海軍パイロット発明家のトーマス・ローン・マッケイに出会い二人1962年結婚し数年後前述次男スコット長女ダイアン生んだ長男マイケルハーバード大学卒業する東海岸定住したまま寄り付かなくなり家族とはほとんど音信不通となったその後ケイはキャサリン・メイ・マーティン・マッケイ(Katherine May Martin McKay)として慈善活動しながら夫のトム2000年亡くすまで支え2017年90歳で死去したデイヴモードを妻とする経緯デイヴの姪で、ダイアナ妃ロナルド・レーガンはじめとする数多く著名人伝記書いた著述家全米作家協会会長のアン・エドワーズ(英語版)が2012年出版した自身回想録記している。 デイヴ1940年代入ってから新たに前述サックス・フィフス・アベニュー内で洒落たランチルームを出店していた。少し経ったある日チェイスンズディナーの仕込でいわゆる準備中の店を閉めている時間に、当時の妻で前述テオデイヴに話があって予告なしに店を訪れたテオ勝手口から厨房入って従業員デイヴはどこにいるのかとたずねたが、誰からも反応がなかった。ようやく一人従業員事務所に居ると答えたので、裏から回って事務所通じ階段のほうへ向かうとテオデイヴの名を呼んだデイヴは「今行く」と答えたのでテオ階段上り始めると、金髪の女性全裸衣服引きずりながら事務所から出てきて、向かいにあるリネン庫に向かって廊下横切ったのを見た直後に服がやや乱れたデイヴ事務所から出てきて廊下立ったので、テオリネン庫の中を確かめるために近寄ると彼を押し退けてドア開けた。そこには(金髪の)魅力的な女性半裸で立ちすくんでいた。 デイヴヴォードヴィリアン下積み時代にはテオダンサーしながら家計支えビバリー・ブールバード掘っ立て小屋の店を開いた当時には、キッチン調理の手伝いをするなど働き者であったといい、20年上ものひたすら夫に尽くしてきた。それでも、テオは涙をのんで誰の目にも魅力的な金髪の女性モードデイヴを譲ることになったテオはそれから3週間後に離婚調停に進むが、財産分与放棄し扶養料だけを求めることで話はすぐについた。ところが、テオタクシー裁判所行って帰る途中乗っていたタクシー小型トラック幅寄せされ電柱激突車外投げ出された彼女は重傷負って救急車病院運ばれた。テオのけがの程度両足の数か所を骨折しており、手当て受けて大事に至らず済んだと思うのもつかの間肺炎併発しそのまま帰らぬ人となったその後デイヴモード再婚した翌年1943年エルンスト・ルビッチ監督した唯一のカラー映画20世紀フォックスから配給され喜劇天国は待ってくれる』が公開され前述ドン・アメチー主役級プレイボーイ役で出演した一度は妻に逃げられても懲りずに女遊びやめられない男が結婚25年目に妻を亡くし、やがて自分死んで天国か地獄か行き先決め裁きを受けることになるが、本人地獄行き仕方ないあっけらかんとしていたものの、長年連れ添った妻が最愛女性だったのには違いない閻魔大王から許しを受け、男は妻が待つ天国行きになるというストーリーであった

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