店主の経歴と悲劇
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創業者のデイヴ・チェイスンは帝政ロシア時代の1898年7月18日、ウクライナ南部の黒海に面する港湾都市オデッサに生まれた。8歳でアメリカに移住し成人後にニューヨーク州ポート・チェスターの実家から離れ、1920年からブロードウェイのレヴューに出てキャリアを積んだ。このころにデイヴはテオ・ホリー(Theo Holly)という女優と結婚した。テオとはチェイスンズの開店後まで20年以上連れ添ったが、1940年代になって離婚の調停中に後述する交通事故がもとで彼女は死去した。デイヴは体を張ったヴォードヴィリアンとして定着すると、1923年からジョー・クックとコンビを組んで引き立て役・ぼけ役(stooge)のポジションを確立した。前述のミュージカルでは主役のクックは1931年の閉演後やがてソロとなり、映画に出るためにロサンゼルスに移ったチェイスンは挫折するが、これが転じて自身の名を後世に残すチェイスンズの成功に繋がった。1973年6月16日、74歳でロサンゼルスの自宅にて死去した。死因はがんだった。その後は妻のモード・キング・チェイスン(Maude King Chasen)が後継者となった。 モード・キングは1904年5月20日、現在はKFCコーポレーションの本拠地として知られる、ケンタッキー州北西部のルイビルに生まれた。幼いころに母親を亡くし、ジョージア州オールバニで2人のおばによって育てられた。12歳から日曜学校の講師を務め女性解放思想を持つようになると、当時のジョージア州で唯一女性が自立可能なキャリアであると考えた教育者を志し、18歳までに大学で教育を受け学校で教えるようになった。やがて教育者としてルイビルのデパートに書籍コーナーがないのに意見すると、自らが売り場担当の責任者になることで開設させた。それからハリー・マーティンという人物と結婚し、1927年にルイジアナ州ニューオリンズで一人娘のケイ(キャサリン)を生むが、ケイはウェストバージニア州バックハノンのハリーの母親姉妹にあずけられた。モードとハリーはケイが幼いころに離婚した。その美貌やセールスの腕を見込まれたモードは、美容師の勧めで美容の道へ進んでキャリアウーマンとなり、フランスへの遊学、シカゴのラジオ出演や写真モデルなどの活動を経て、ニューヨークマンハッタンの百貨店・サックス・フィフス・アベニュー内にあるビューティーサロンで、受付兼総支配人に落ち着いていた。 モードは仕事で飛び回っていた時期にロサンゼルスを訪れた際、ヴォードヴィリアン出身で映画俳優として成功したドン・アメチーとその妻からデイヴ・チェイスンを紹介された。最初は内気な性格のデイヴに惹かれはしなかったというが、モードのことが気に入った彼から押されまくって付き合いがはじまる。モードは南カリフォルニアに住んでみたいと思っていたこともあり、家を建てて移り住んだ。デイヴとは後述の出来事のあと1942年に結婚した。1973年に亡き夫の後を継いでから1995年の閉店までチェイスンズのオーナーを務め、娘と3人の孫、5人のひ孫を残し、2001年12月8日、97歳で亡くなった。死因は肺炎だった。二人の墓は観光客が多く訪れるフォレストローン・メモリアルパーク(英語版)に並んである。 チェイスンズの閉店後、モードが存命中の1990年代後半にデイヴ・チェイスンの相続人としてたびたび報道されているのが、後述するスコット・マッケイ(Scott McKay)という実業家である。「デイヴとモード・チェイスンの孫」と称されるが、モードの孫ではあってもデイヴとの血の繋がりはない。 モードが1927年に生んだ一人娘であるケイは、ユニバーシティー高校を経てカリフォルニア大学ロサンゼルス校で優秀な成績をおさめ、途中、猩紅熱で半年間闘病生活を送り左耳の聴力をほとんど失うも文学士号を取得した。同校ではフラタニティのカッパ・アルファ・シータ(英語版)に所属し、母親譲りの美貌で1949年のミスUCLAにあたるベル(Belle of UCLA)にも輝いた。ケイは大学を卒業後デヴィッド・スミスという人物と結婚し、1953年にマイケルという長男を生むが直後にスミスとは離婚した。1960年、ケイはハンサムな海軍パイロットで発明家のトーマス・ローン・マッケイに出会い、二人は1962年に結婚し数年後に前述の次男のスコットと長女のダイアンを生んだ。長男のマイケルはハーバード大学を卒業するが東海岸に定住したまま寄り付かなくなり、家族とはほとんど音信不通となった。その後のケイはキャサリン・メイ・マーティン・マッケイ(Katherine May Martin McKay)として慈善活動をしながら夫のトムを2000年に亡くすまで支え、2017年に90歳で死去した。 デイヴがモードを妻とする経緯はデイヴの姪で、ダイアナ妃やロナルド・レーガンをはじめとする数多くの著名人の伝記を書いた著述家・全米作家協会元会長のアン・エドワーズ(英語版)が2012年に出版した自身の回想録に記している。 デイヴは1940年代に入ってから新たに前述のサックス・フィフス・アベニュー内で洒落たランチルームを出店していた。少し経ったある日、チェイスンズがディナーの仕込でいわゆる準備中の店を閉めている時間に、当時の妻で前述のテオがデイヴに話があって予告なしに店を訪れた。テオは勝手口から厨房に入って従業員にデイヴはどこにいるのかとたずねたが、誰からも反応がなかった。ようやく一人の従業員が事務所に居ると答えたので、裏から回って事務所に通じる階段のほうへ向かうとテオはデイヴの名を呼んだ。デイヴは「今行く」と答えたのでテオが階段を上り始めると、金髪の女性が全裸で衣服を引きずりながら事務所から出てきて、向かいにあるリネン庫に向かって廊下を横切ったのを見た。直後に服がやや乱れたデイヴが事務所から出てきて廊下に立ったので、テオはリネン庫の中を確かめるために近寄ると彼を押し退けてドアを開けた。そこには(金髪の)魅力的な女性が半裸で立ちすくんでいた。 デイヴがヴォードヴィリアンの下積み時代にはテオはダンサーをしながら家計を支え、ビバリー・ブールバードに掘っ立て小屋の店を開いた当時には、キッチンで調理の手伝いをするなど働き者であったといい、20年以上もの間ひたすら夫に尽くしてきた。それでも、テオは涙をのんで誰の目にも魅力的な金髪の女性、モードにデイヴを譲ることになった。テオはそれから3週間後に離婚の調停に進むが、財産分与を放棄し扶養料だけを求めることで話はすぐについた。ところが、テオがタクシーで裁判所に行って帰る途中、乗っていたタクシーが小型トラックに幅寄せされ電柱に激突、車外に投げ出された彼女は重傷を負って救急車で病院に運ばれた。テオのけがの程度は両足の数か所を骨折しており、手当てを受けて大事に至らずに済んだと思うのもつかの間、肺炎を併発してそのまま帰らぬ人となった。その後、デイヴはモードと再婚した。 翌年の1943年、エルンスト・ルビッチが監督した唯一のカラー映画で20世紀フォックスから配給された喜劇『天国は待ってくれる』が公開され、前述のドン・アメチーが主役級のプレイボーイ役で出演した。一度は妻に逃げられても懲りずに女遊びがやめられない男が結婚25年目に妻を亡くし、やがて自分も死んで天国か地獄かの行き先を決める裁きを受けることになるが、本人は地獄行きは仕方ないとあっけらかんとしていたものの、長年連れ添った妻が最愛の女性だったのには違いないと閻魔大王から許しを受け、男は妻が待つ天国行きになるというストーリーであった。
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