宝永地震と道中奉行の管轄への経緯
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「本坂通」の記事における「宝永地震と道中奉行の管轄への経緯」の解説
地震津波の本坂道通行の許可 寛永4年(1627年)の地震の際には、本坂通りの通行は一時許されており、寛永7年に「新居ノ修築成ルヲ以テ其舊例二復シ本坂越ノ通行ヲ停ム但風雨ノ日ハ此ノ限外トス」申し渡されていた。元禄12年(1699年)の暴風雨による高潮被害により、新居関所は2年後に西側に移転し、舞阪宿と新居宿を結ぶ今切の渡しは従来の27町から1里に約4キロメートル長い航路になった。 宝永地震の被害 更に宝永4年(1707年)の宝永地震では、3度の津波によって移転後間もない新居の関所が流され、4-5日間渡海が出来なくなるなど、浜名湖南岸は壊滅的な打撃を受けた。「今切津波のため渡船杜絶し往還の旅人や荷物」が本坂通に殺到した。旅人は、今切渡しの復興後も、本坂通を利用するものが多かったため、「沿道宿駅及び助郷農民の困窮は甚だしいもの」があった。そのため、「気賀町庄屋三左衛門名義にて「宝永四年丁亥十月(一七〇七)道中奉行」に注進している。 乍恐口上書を以申上候御事十月四日地震にて新居今切渡海不自由に罷成候に付往来本坂越御通り被成 気賀町馬継に御座候処、御伝馬役無御座 御地頭御小身に御座候故 人馬少にて附払手支申候 此段為御注進申上候 以上 亥十月十二日 遠州気賀町庄屋三左衛門 御奉行様 — 池田一夫編『静岡県社会文化史』上 所収。 翌宝永5年(1708年)4月に今切口の修復と新居宿の再移転は完了したが、浜名湖の湖口が広がって渡海が不便になったことと、また「法螺でない荒井の津波路」と謳われたように、波が荒くなり渡船に危険がともなった時期があったこと、旅人の今切渡船に対する危険性の認識が容易に払拭されなかったことから、本街道を避けて、被害の少なかった姫街道の本坂越を利用する旅人が多くなった。 右湊口乱杭御普請之義去ル亥年地震・津浪ニ付、湊口広ク罷成、往来渡船場へ浪強有之ニ付、御大名様其外往来本坂越いたし、浜松ゟ吉田迄宿々致困窮、右宿之者共、御公儀江願出候ニ付、右之御普請被、仰付候、御普請出来之節、乱杭通新居洲崎百間余洲出、其後毎々出洲有之、当年迄ニ而八拾間程之出洲ニ罷成、此分湊口ふさかり候故渡海場静ニ罷成候、 寅正月十六日 — 『宝永七~正徳元年 地震後の湊口修復に関する書類』、東京大学地震研究所(1981)、46頁 所収。 宝永地震からの復興と本坂通の通行地震の後、本道が通行可能となっても本坂越の通行量が減らず、街道の使役に駆り出される本坂道周辺の農民は災害の復旧もままならず、農作業にも支障が出て対応に苦慮し、大名の通行禁止を訴えた。他方で、東海道筋の宿場は、通行人が減り、宿泊や荷物輸送の収入がなくなって復興が進まなかったため、宝永6年(1709年)3月に、浜松・舞阪・新居・白須賀・二川・吉田の6宿で、宿場再建の助成と大名の本坂越通行禁止を嘆願した。 乍恐差上申口上書 三年以前地震以来往還御衆中様本坂越被遊、困窮之役人共弥以無力仕、御役難勤渡世経営不罷成迷惑仕、今度六宿罷下り本坂通御止メ被為下候様ニ奉願上候、尤新居渡海能く御座候様ニ御普請可被為、仰付難有奉存候、右候ヘハ末々者御大名様方・諸往来共ニ御通り可被遊と奉存候得共、当分本坂道御通り被遊候而ハ、六宿之御伝馬役人・末々之者迄及渇命、指当りひしと難儀仕候、恐多く奉存候得共、六宿近在迄御救ニ御座候間、見付宿ゟ市野村・御油宿ゟすせ村江馬継立不申候様ニ被為、仰付被下候者難有可奉存候、浜松之義ハ本坂道・東海道両道ニ御座候間、人馬支度難仕御座候、御用ニ而御通り被為遊候御方様へハ、人馬為用意遠見之者遣し申義ニ御座候、両道へ遠見遣し候得者、役人共迷惑仕候、舞坂ゟ吉田迄之宿々も御触状通り候得ハ、遠見之者毎日差遣し、人馬相集メ宿々ニ而奉待候処ニ付、俄ニ本坂道江御通り被遊候故、別而難儀仕候、以御慈悲見付宿より市野村・御油宿よりすせ村江人馬継立不申候様ニ被為、仰付被下者難有可奉存候、以上、 宝永六年丑三月 — 「御役難勤渡世経営不罷成迷惑」、『新居町史 第八巻 近世資料四』『宿方・地方資料』所収。 翌宝永7年(1710年)2月にも浜松宿など4宿が大名の本街道利用を嘆願した。同年3月に幕府は、幕府の役人が新居を通行するようにすれば、諸大名も新居を利用するだろう、として、本坂越禁止の通達を出したが、風雨などで渡り難いときはその限りではないとしていて、あまり効果がなかった。 享保2年(1717年)11月になって幕府は全面的な本坂越停止令を出した。幕府から度々禁止令が出ることにより、街道はようやく落ち着きを取り戻したとされるが、それでも本坂道の往来は止まず、翌享保3年(1718年)には吉宗の母・浄円院が和歌山から江戸へ行く際に本坂越をしている。享保11年(1726年)にも、幕府は、本坂通禁止の原則は維持しながらも、風雨や急病のため渡海が難しい事態が生じた場合は別扱いとしており、通行禁止はなかなか徹底しなかった。 本坂通は、享保2年以降、人馬継立法度となり、気賀・三ヶ日・嵩山とのみ呼ばれ、宿とはされなかった。享保2年に本坂通の駅伝を廃止したが、享保20年には、風雨又は急病者のために以下のような書付が出ており、風雨や急病のため渡海が難しい事態が生じた場合は別扱いとなっていた。 東海道本坂通りの儀は、先年相達無用乍然、参り掛け風雨又は急病にて渡海難成儀出来候は、其節は格別に候、尤人馬は不出筈に候間、若被相廻候共手廻り計可申候、左候はば其段旅中より可被相届候以上。享保廿年乙卯十一月 日 — 松平伊豆守殿御渡候御書付寫(舊政府御達留三) 道中奉行の管轄下入り 本坂通は、明和元年(1764年)佐屋路、例幣使街道とともに道中奉行の管轄となり、「五駅便覧」には、これに関する文書の記載がある。 「一、本坂通道中奉行支配之事明和元年申年九月例幣使道共七日松平右近将監殿池田筑後守安藤弾正小弼道中奉行之節相成ル」 — 「五駅便覧」所収 本坂通は東海道に付属した。これにより、参勤交代等の公的交通で、東海道を利用すべきとされている場合でも、病気などの特別の事情がある場合には、幕府へ届け出れば本坂通を利用してもよい、とされた。東海道の付属の街道とされた理由については、宝永地震後本坂道の交通量が増え、東海道の必要性を強く意識されたため、としている。なお、このとき本坂通とされたのは、浜松宿(追手門前の高札場)で東海道の本道から姫街道に入り、気賀宿、三ケ日宿、嵩山宿を経て御油宿に至る道筋である。 『本坂通宿村大概帳』と『本坂通分間延絵図』 「本坂通宿村大概帳」は、天保から安政年代(1830-50年代)にかけて、江戸幕府の道中奉行所が5街道やその脇道の各宿駅と街道筋の村落の状況を調査してまとめた「宿村大概帳」のうち、本坂通の状況についてまとめた資料である。天保14年(1843年)の宿村明細書には、気賀、三ヶ日、嵩山の記録がある。道中奉行所によって使用されたとみられており、近世史研究の貴重な資料となっている。 江戸幕府の道中奉行所が寛政年間に製作し、文化3年(1806年)に完成した1,800分の1の縮尺図「五街道其外分間見取延絵図」のうちの「本坂道分間延絵図(控)」には、浜松から御油に至るルートが詳細に描かれている、とされているが、1997年当時、逓信博物館が所蔵しているものの非公開で、公刊されていないため閲覧できないとされており、2010年当時は郵政資料館のみに現存している、とされている。
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