宝永地震と道中奉行の管轄への経緯とは? わかりやすく解説

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宝永地震と道中奉行の管轄への経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 01:35 UTC 版)

本坂通」の記事における「宝永地震と道中奉行の管轄への経緯」の解説

地震津波本坂道通行許可 寛永4年1627年)の地震の際には、本坂通り通行一時許されており、寛永7年に「新居修築成ルヲ以テ其舊例二復シ本坂越ノ通行ヲ停ム但風雨ノ日ハ此ノ限外トス申し渡されていた。元禄12年1699年)の暴風雨による高潮被害により、新居関所2年後西側移転し舞阪宿新居宿を結ぶ今切の渡し従来27町から1里に約4キロメートル長い航路になった宝永地震被害 更に宝永4年1707年)の宝永地震では、3度津波によって移転後間もない新居の関所が流され4-5日間渡海出来なくなるなど、浜名湖南岸壊滅的な打撃受けた。「今切津波のため渡船杜絶し往還旅人荷物」が本坂通殺到した旅人は、今切渡しの復興後も、本坂通利用するものが多かったため、「沿道宿駅及び助郷農民困窮甚だしいもの」があった。そのため、「気賀町庄屋三左衛門名義にて「宝永四年丁亥十月一七〇七)道中奉行」に注進している。 乍恐口上書を以申上候御事十月四日地震にて新居今切渡海不自由に罷成候に付往来本坂御通り被成 気賀町馬継に御座候処、御伝馬役無御座 御地頭御小身御座候故 人馬少にて附払手支申候 此段御注進申上候 以上 亥十月十二日 遠気賀町庄屋三左衛門 御奉行様 — 池田一夫編『静岡県社会文化史』上 所収。 翌宝永5年1708年4月今切口の修復新居宿の再移転完了したが、浜名湖の湖口が広がって渡海不便になったことと、また「法螺でない荒井津波路」と謳われたように、波が荒くなり渡船に危険がともなった時期があったこと、旅人今切渡船に対す危険性認識容易に払拭されなかったことから、本街道避けて被害少なかった姫街道本坂越を利用する旅人多くなった。 右湊口乱杭御普請之義去ル亥年地震津浪ニ付、湊口広ク罷成、往来渡船場へ浪強有之ニ付、御大名様其外往来本坂越いたし、浜松吉田迄宿々致困窮、右宿之者共御公儀江願出候ニ付、右之御普請被、仰付候、御普請出来之節、乱杭新居洲崎百間余洲出、其後毎々出洲有之、当年迄ニ而八拾間程之出洲ニ罷成、此分湊口ふさかり候故渡海場静ニ罷成候、 寅正月十六日 — 『宝永七~正徳元年 地震後の湊口修復に関する書類』、東京大学地震研究所1981)、46所収宝永地震からの復興本坂通通行地震の後、本道通行可能となっても本坂越通行量減らず街道使役駆り出される本坂道周辺農民災害の復旧ままならず農作業にも支障出て対応に苦慮し大名通行禁止訴えた他方で、東海道筋の宿場は、通行人減り宿泊荷物輸送収入なくなって復興が進まなかったため、宝永6年1709年3月に、浜松舞阪新居白須賀二川吉田の6宿で、宿場再建助成大名本坂通行禁止嘆願した。 乍恐差上申口上書 三年以前地震以来往還衆中本坂越被遊、困窮役人共弥以無力仕、御役難勤渡世経営不罷成迷惑仕、今度六宿罷下り本坂通止メ被為下候様ニ奉願上候、尤新居渡海能く御座候様ニ御普請可被為、仰付難有存候、右候ヘハ末々御大名様方・諸往来共ニ御通り可被遊と奉存候得共、当分本坂道御通り被遊候而ハ、六宿之御伝馬役人末々之者迄及渇命、指当りひしと難儀仕候、恐多く存候得共、六宿近在御救御座候間、見付宿市野村御油宿ゟすせ江馬継立不申候様ニ被為、仰付被下候者難有可奉存候浜松之義ハ本坂道東海道両道御座候間、人馬支度難仕御座候御用ニ而御通り被為遊候御方様へハ、人馬用意遠見之者遣し申義ニ御座候両道遠見遣し候得者、役人共迷惑仕候、舞坂吉田迄之宿々も御触状通り候得ハ、遠見之者毎日差遣し人馬相集メ宿々ニ而奉待候処ニ付、俄ニ本坂道御通り被遊候故、別而難儀仕候、以御慈悲見付宿より市野村御油宿よりすせ人馬継立不申候様ニ被為、仰付被下者難有可奉存候、以上、 宝永六年丑三月 — 「御役難勤渡世経営不罷成迷惑」、『新居町第八巻 近世資料四』『宿方・地資料所収。 翌宝永7年1710年2月にも浜松宿など4宿が大名本街道利用嘆願した同年3月幕府は、幕府役人新居通行するようにすれば諸大名新居利用するだろう、として、本坂禁止通達出したが、風雨などで渡り難いときはその限りではないとしていて、あまり効果がなかった。 享保2年1717年11月になって幕府全面的な本坂停止令を出した幕府から度々禁止令が出ることにより、街道はようやく落ち着き取り戻したとされるが、それでも本坂道往来止まず、翌享保3年1718年)には吉宗の母・浄円院和歌山から江戸へ行く際に本坂越をしている。享保11年1726年)にも、幕府は、本坂通禁止原則維持しながらも、風雨急病のため渡海難し事態生じた場合は別扱いとしており、通行禁止はなかなか徹底しなかった。 本坂通は、享保2年以降人馬継立法度となり、気賀三ヶ日嵩山とのみ呼ばれ、宿とはされなかった。享保2年本坂通駅伝廃止したが、享保20年には、風雨又は急病者のために以下のような書付出ており、風雨急病のため渡海難し事態生じた場合は別扱いとなっていた。 東海道本坂通りの儀は、先年相達無用乍然、参り掛け風雨又は急病にて渡海難成儀出来候は、其節は格別に候、尤人馬不出筈に候間、若被相廻候共手廻り計可申候、左候はば其段旅中より可被相届候以上。享保廿年乙卯十一月 日 — 松平伊豆守殿御渡候御書付寫(舊政府御達留三) 道中奉行管轄入り 本坂通は、明和元年1764年佐屋路例幣使街道とともに道中奉行管轄となり、「五駅便覧」には、これに関する文書記載がある。 「一、本坂通道中奉行支配之事明和元年申年九月例幣使道七日松平右近将監殿池田筑後守安藤弾正小弼道中奉行之節相成ル」 — 「五駅便覧所収 本坂通東海道付属した。これにより、参勤交代等の公的交通で、東海道利用すべきとされている場合でも、病気などの特別の事情がある場合には、幕府届け出れば本坂通利用してもよい、とされた。東海道付属街道とされた理由については、宝永地震本坂道交通量増え東海道必要性強く意識されたため、としている。なお、このとき本坂通とされたのは、浜松宿追手門前高札場)で東海道本道から姫街道入り気賀宿三ケ日宿、嵩山宿経て御油宿に至る道筋である。 『本坂通宿村大概帳』と『本坂通分間延絵図』 「本坂通宿村大概帳」は、天保から安政年代(1830-50年代)にかけて、江戸幕府道中奉行所が5街道やその脇道の各宿駅街道筋村落状況調査してまとめた「宿村大概帳」のうち、本坂通状況についてまとめた資料である。天保14年1843年)の宿明細書には、気賀三ヶ日嵩山記録がある。道中奉行所によって使用されたとみられており、近世史研究貴重な資料となっている。 江戸幕府道中奉行所寛政年間製作し文化3年1806年)に完成した1,800分の1の縮尺図五街道外分見取絵図」のうちの「本坂道分間絵図(控)」には、浜松から御油に至るルート詳細に描かれている、とされているが、1997年当時逓信博物館所蔵しているものの非公開で、公刊されていないため閲覧できないとされており、2010年当時郵政資料館のみに現存している、とされている。

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