大量虐殺と破壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 08:50 UTC 版)
ニコラエフスクでは、日本軍決起に続く市民虐殺の後、一時、手続きのない殺人は行われなくなっていた。3月16日には、第1回サハリン州ソビエト大会が開催された。大会では、ハバロフスクにおける革命委員会とゼムストヴォ自治政府の妥協主義が非難され、トリャピーツィンの独裁的な革命体制が確立されようとしていた。配給制度が推し進められ、徴発は日常茶飯事となり、恣意的な逮捕、投獄は続いた。そんな中で、かつてパルチザン鉱山連隊の司令官を務めていたブードリンがトリャピーツィンを批判し、ブードリンは逮捕された。しかしブードリンには、解散させられた鉱山連隊を中心に支持者が多く、死刑にはならなかったが、後に大虐殺の最中に殺された。 ニコラエフスクの惨事を知った日本軍は、赤軍との妥協的な態度を捨てた。4月4日、ウラジオストクにおいて、日本軍の歩哨が射撃を受けたことをきっかけに日本軍は軍事行動を起こし、赤軍に武装解除を求め、ウラジオストクの赤軍はこれを受け入れた。ハバロフスクでは戦闘が起こったが、4月6日には日本軍が勝利をおさめ、赤軍は武装解除された。4月29日になって、日本はウラジオストク臨時政府と、以下のような条件で講和した。「ロシアの武装団体はどのような政治団体に属するものであっても日本軍駐屯地およびウスリー鉄道幹線ならびにスーチャン支線から30キロ以内には侵入できない。また、この圏内のロシア艦船、兵器、爆弾その他の軍需材料、兵営、武器製造所など、すべて日本軍が押収する」。 日本軍が赤軍を武装解除した4月6日、ちょうど極東共和国が樹立され、ソビエト・ロシアの了承のもと、ロシア東部、シベリア一帯が独立した民主国家を名乗って、日本を含む連合国側に承認を求めた。ソビエト・ロシアとの間の緩衝国家となり、日本に撤兵を呑ませようとしていたのである。極東共和国のこの目的からしても、赤軍の武装解除は、受け入れを拒否する問題ではなかった。 ニコラエフスクには、4月20日ころから、ハバロフスクにおける日本軍と赤軍との戦闘の噂が届きはじめた。やがて、ハバロフスクの赤軍は武装解除されたこと、解氷とともに日本軍は確実にニコラエフスクへ至ることなど、詳しいことが伝わった。赤軍の武装解除、極東共和国の樹立は、トリャピーツィンには思惑外であり、ただちに、全権が執行委員会から革命委員会に移され、非常態勢がとられた。最初に行われたことは、アムール川の日本船の航行を妨害するため、障害物を置くことである。バージを航路に沈めるため、女子供までがかり出され、重労働に従った。また、資金もつきていて、トリャピーツィンは新ソビエト紙幣を刷った。中国商人はこれを受け取ろうとはせず、必要物資を調達するためには、金塊で支払うしかなかった。しかし、貯金が封鎖され、全紙幣の廃止、新ソビエト紙幣へ交換するための期限設定が布告されると、逮捕を怖れた人々は、争って交換した。交換された旧紙幣は、革命委員に分配された。 女性たちは強姦された。朝鮮人部隊の中隊長はある漁業経営者の娘を強姦すると翌日には音楽会で歌うことを強制した。その後、この少女と幼子も含めた家族全員はバージからアムール川に突き落とされた。また、女性教諭も強姦され、多くの少女達は恐怖の下でパルチザンと同棲することを強制された。 革命委員会とチェーカーの特別会議において、トリャピーツィンとニーナ・レベデワは、「パルチザンとその家族をアムグン川上流のケルビ村に避難させ、残ったニコラエフスクの住民を絶滅し、町を焼きつくす」という提案をし、了承された。それは秘密にされていたが、噂が流れ出した。5月20日、中国領事と砲艦、そして中国人居留民がみな、全財産を持って、アムール川の少し上流にあるマゴ(マヴォ)へ移動した。この直後、21日の夜から、逮捕と処刑がはじまった。日本軍決起のときに殺された人々の家族、以前に収監されたことのある人々が投獄され、次々に処刑された。80歳の老人から1歳の子供、弁護士や銀行家から郵便局員や無線局員、ユダヤ人は名指しで狙われていたが、ポーランド人やイギリス人も、 無差別に殺された。21日から24日までの間に、3,000人が殺されたのではないか、と言われている。 5月24日、収監されていた日本兵、陸軍軍人軍属108名、海軍軍人2名、居留民12名、合計122名が、アムール河岸に連れ出されて虐殺され、さらには、病院に収容されていた傷病日本兵17名も、ことごとく殺された。日本の救援隊は、生存者の生命の安全を確保するために、交渉する用意はあったが相手がつかまらず、意志を伝えようと、海軍の飛行機を使ってビラをまいた。目的は果たせなかったが、元気づけられた人もいた。父、姉、弟を殺された女子学生V.N.クワソワは、こう語っている。「5月29日、日本軍の飛行機が飛んできて、市民を元気づける内容の、宣伝ビラを散布していきました」 住人は、街から逃げ出して、近郊の村やタイガへ隠れたが、赤軍は武装探索隊を出して殺害してまわった。殺戮は10日間続き、ケルビへの移動がはじまった。町を離れるには通行証が必要で、もらえなかった人々は、殺される運命にあった。町の破壊は、28日にはじまった。最初に川向こうの漁場に火がつけられ、30日には製材所が焼かれ、31日には、町中が炎につつまれた。その間にも、虐殺は行われた。建物に閉じ込めたまま焼き殺し、バージに乗せて集団で川に沈めた。最終的に、何千人が殺されたのか、正確な数は不明である。 ニコラエフスクを破壊した理由について、パルチザンだったp. Ya.ウォロビエフは、次のように証言している。「町を破壊した理由は、形成される政府の可能性を妨げることにあった。もし、町に住民が残っていれば、彼らの多くは日本軍の保護の下で、政府を作り上げることは確かである。しかし、もし町に誰もいなければ、日本軍は冬期に滞在することができずに、去ってしまうだろう」 事件全体の日本人犠牲者は、軍属を含む陸軍関係者が336名、海軍関係者44名、外務省関係者(石田領事とその家族)4名、判明している民間人347名。合計731名とされている。民間人については、領事館が消失して書類がなく、後日、政府が全国の町村役場に照会して調査したが、つかみきれず、さらに多いのではないか、とも考えられている。 この無差別な殺戮から逃れることができた人々の中には、個人的に中国人の家にかくまわれたり、中国の砲艦で脱出させてもらったりした場合が多くあった。日本人も、中国人にかくまわれた16人の子女が、中国の砲艦によってマゴへ逃れ、かろうじて命拾いをした。ニコラエフスク市内にいて助かった邦人は、単身自力で市外へ逃れ出た毛皮商人が一人いたことをのぞいて、これがすべてである。
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