大量粛清の収束
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 15:21 UTC 版)
1938年11月17日の人民委員会議・党中央委員会秘密決定で、これまで「人民の敵」の撲滅のために多くが行われてきたとし、一部で歪曲もあったが、これは内務人民委員会に潜入した「人民の敵」による根拠のない大量抑圧だったとし、大量逮捕を禁じ、テロルの収束を打ち出した。 1939年3月の第18回共産党大会では、5年前の第17回共産党大会での代議員1966人のうち1108人が逮捕され、そのとき選出された委員139人のうち98人が処刑されていた。党規約から「チーストカ(粛清)」への言及がけずられ、大量粛清が廃止され、党職に就任する条件も緩和された。 1938年12月、スターリンに忠実で、大粛清に大きく加担したニコライ・エジョフは内務人民委員会を解任された。エジョフは1939年に逮捕され、無実の者を逮捕してきた罪を問われて、1940年2月に銃殺された。ラヴレンチー・ベリヤが後任となった。ベリヤのもとでも粛清は行われたが規模は小さくなっていった。 スターリンは、自分の権力を脅かす可能性のある古参ボルシェビキとその仲間、家族を粛清し、赤軍による権力奪取を恐れ赤軍を粛清し、元メンシェビキ、社会革命党員、立憲民主党員も粛清し、クラーク、聖職者、元地主、修道士も粛清した。また、密告したものには出世を約束するなどして密告を奨励した。大粛清をへて、スターリンの個人書記局が正規の共産党をおしのけて絶大な権力を持つにいたった。
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