大正文壇内の勢力・対立関係
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「文藝時代」の記事における「大正文壇内の勢力・対立関係」の解説
「日本社会主義同盟」などの運動が興り、それまで思想とほとんど無縁だった大正文壇にも社会の中心的話題に関心に寄せざるを得ない状況が生まれる中、身辺の告白小説や旧来的な私小説の影が次第に薄くなり、島崎藤村が暗示的に述べていた「行く路は難い」「時代の難さ」という「文学行路の難さ」に新たな要素が加味されつつあった。 この頃は、プロレタリア系の青野季吉、平林初之輔、前田河広一郎などの論客が頭角を現わし、他方では耽美派の谷崎潤一郎、新思潮系の芥川龍之介、詩人の佐藤春夫といった花形作家が才華を競い合っていた。大手文芸雑誌の『新潮』『改造』『中央公論』も、そうした人気の中堅作家や、志賀直哉ら白樺派など大家の作品で占められ、なかなか無名作家の出る幕がなかった。 そうした文壇に対し「上がつかえている」という閉塞感を持っていた「文士のタマゴ」の青年たちは、後輩の面倒見の良い菊池寛を慕って集まっていた。この頃の菊池は、文壇人の一部からは純文学ではないと批判されつつも新聞連載小説「真珠夫人」が大当たりし、時代の半歩先をいくような大正時代の新たな通俗小説の開拓に励んでいた。ジャーナリズムの寵児的存在にもなった菊池は、孤立しがちな文学者の社会的地位向上を目指し、相互扶助的な「劇作家協会」や「小説家協会」(日本文藝家協会の母体)も結成していた。 社会の話題にも関心を寄せていた菊池は、資本主義の不正・不当に対抗する社会主義の理論自体は否定せず、世の中がいずれ社会主義化するのは「時の問題」と考え、あとは「時と手段の問題」が残っているだけと語ったが、こと階級意識を掲げるプロレタリア文学に関しては、「芸術.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}本体(プロパア)に階級なし」と異論を呈した。 菊池は、どんなに政治や社会上の時代変化があろうとも音楽や絵画の芸術本体が普遍であるのと同様、「文藝の芸術的部分は階級と関係なしに、一定不変である」と主張し、芸術が本来の道を外れ政治的功利に利用される時は「堕落する」と断じつつ階級芸術理論を「迷妄」と批判した上で、目下のプロレタリア文学は真の労働者が要求する文藝ではないとした。そのため菊池はプロレタリア系から反発をくらい、「ブルジョア作家」と非難を浴びていた。 こうした文壇内のプロレタリア系の新動向や、文壇人の通俗小説に対する偏見、新人らの不満などを背景に、菊池は文壇に打って出る決意を固め、狭い文壇世界を越えて誰もが遠慮なく自由に物が言える雑文雑誌、無名作家のデビューの足がかりとなり得る雑誌を目指して、1923年(大正12年)1月に朋友の芥川龍之介や久米正雄とともに『文藝春秋』を私費で創刊した(当時の発売元は春陽堂)。 当時『中央公論』が1円、『新潮』が80銭の中、『文藝春秋』創刊号は10銭という破格の安さで、わずか28頁の薄い雑誌であったが、たちまち3,000部が完売し直接購読(定期購読)の申し込みも150件以上来た。『文藝春秋』は巻頭を飾る芥川のアフォリズム的な連載随筆コラム「侏儒の言葉」が特色でもあった。 好調な売れ行きに勢いづいた菊池は、4,000部に増刷した2号にて「私が知つてゐる若い人達」と紹介しながら、新進作家の川端康成ら第6次『新思潮』同人、ほぼ無名の横光利一らを『文藝春秋』の同人に加えた。この2号にはプロレタリア系作家の評論も掲載され、その呉越同舟の編集方針が人気を呼んだ。1万部まで大増刷された5号は「特別創作号」と銘打ち、横光の名が一躍有名となる「蠅」が掲載された。 将来性を予感させる横光や川端を従えた菊池の『文藝春秋』は順調に売上げを伸ばし、大正文壇の新たな転回への刺激剤になっていった。横光はプロレタリア文学については菊池同様の立場をとり、「階級文学の提称は、最早や文学の世界にあつては時代錯誤である」とプロレタリア系論客に対抗した。 川端も、「プロレタリア作品即ち下らない作品」という概念を世間に与えたプロレタリア作家の罪は「九死に価ひする」と手厳しい意見をするなどしていたが、前田河広一郎、金子洋文、今野賢三は新しい感覚を持っていると高評価し、作品本位の柔軟な姿勢だった。 当時、新進気鋭の文芸時評家として歯に衣着せぬ発言をしていた川端の目下の敵は、プロレタリア系の動きの方ではなく、「旧態依然たる」既成作家や既成文壇だった。既成の批評家は実際の作品をよく読みもせず、あるいは読めず(文章の善し悪しも分らず)、固定観念に縛られ、若い世代の作品を評価することができないことが川端の不満であり、彼らによって若い才能の芽が摘まれてしまうことが我慢ならなかった。 川端は『新潮』合評会の権威的なあり方(恩恵と同時に、場合によっては青年作家の将来を潰しかねない「害毒」の危険性)を率直に述べ、程度の低い「文壇常識」から出なくなった合評会諸氏の言葉は、諸氏が進展しなくなった証拠であるとして、「やがて現れるであらう新鮮なものに席を譲るべき時が来た」と挑戦的な姿勢を示した。 『新潮』合評会には、当時中村武羅夫、宇野浩二、近松秋江などがいて、中村は川端の発言に対し烈火のように怒っていた。中村は『新潮』の編集者として文壇に睨みをきかしていた存在でもあった。横光の「蠅」ついても中村は「行き方が、まともでないやうな気がする」と低評価をしていた。川端が宇野の作品「心づくし」を貶した後、宇野も川端の作品「篝火」を貶すという対立関係もあった。
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