大垣夜行時代とは? わかりやすく解説

大垣夜行時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 18:33 UTC 版)

ムーンライトながら」の記事における「大垣夜行時代」の解説

前述夜行普通列車は、東海道本線普通列車唯一の客車列車となっていたことから、合理化のため1968年昭和43年10月ダイヤ改正(「ヨンサントオ」)において廃止されることが決定していた。しかし、そのこと新聞などで発表される廃止反対要望書国鉄本社などに多く寄せられ当時国鉄総裁石田礼助が「この夜行列車存続させるべきである」と判断したこと、またこの列車には荷物郵便輸送役割もあった事情などから、それまで運行されていた臨時急行列車『ながら3号』(東京駅23:46発、大垣駅7:16着)を普通列車化する形で、急行形電車使用して存続することになったちなみに当時はまだ東名高速道路部分的にしか開通しておらず、東京名古屋京阪神を結ぶ高速バスもまだなく、格安航空会社存在しなかったこともあって、寝台車の無い普通列車格安移動する旅客まだまだ多かった電車化際し運転区間大垣駅までに短縮され一般に大垣夜行呼ばれることとなった実際に下り列車のみ、大垣から分岐する東海道線支線美濃赤坂駅行だったが、1969年昭和44年10月1日大垣止まり変更となった大垣駅発着となったのは、ここに車両基地大垣電車区現在の大垣車両区)があり、運用好都合なためであった。なお、上り前述豊橋駅 - 東京駅間の列車大垣発に延長したになった下り (143M) 東京23:30豊橋4:40/4:46名古屋6:22/6:29大垣6:59/7:05美濃赤坂着7:27上り (144M) 大垣20:32名古屋21:16/21:18豊橋22:37/22:38東京4:35 特に下り列車は「大垣行き夜行電車」なので「垣電」と呼ぶ利用者少なからずいた。電車化しばらくの間客車時代列車番号踏襲した143Mと144Mを名乗ったが、後に東京駅 - 名古屋駅運行普通列車と同じ体系 (3xxM) に変更されている。下り列車場合でみると、白紙ダイヤ改正ごとに347M → 345M → 375Mと変化している。下り列車各駅停車区間設定当初掛川駅からであったが、1972年昭和47年)には午前4時過ぎの浜松駅からとなり、1996年平成8年)の「ムーンライトながら」化まで続いた。なお「各駅停車」と記載しているが、名古屋近郊新設駅は通過する場合があった。時期により通過駅変動し設定当初下りのみ三河大塚駅三ケ根駅、「ムーンライトながら」化直前上下とも三河塩津駅尾頭橋駅通過したまた、設定当初下り列車金谷駅停車していた(上り列車当時各駅停車区間含まれた)。1974年昭和49年)には定期停車取り止められるが、その後臨時停車1980年代後半まで続いた登山シーズンには大井川鉄道(現・大井川鐵道)も下り列車接続する臨時列車深夜3時台より運行したであった。 この列車人気高く、特に1982年昭和57年)に青春18きっぷ当初青春18のびのびきっぷ)の販売開始されると、その利用可能期間となる夏・冬・春の繁忙期にはラッシュ時通勤列車並みもしくはそれ以上となった。特に通勤退勤時間帯重な下り東京駅 - 小田原駅間と岡崎駅 - 名古屋駅間での、青春18きっぷ有効期間中の混雑甚だしかった青春18きっぷ販売開始される前はグリーン車から席が埋まっていたが、青春18きっぷ販売開始されてからは普通車から席が埋まるようになり、特に下り始発駅である東京駅では数時間前から行列が出来ていた。青春18きっぷ発売されない時期は、週末などを中心に東京ミニ周遊券京阪神ミニ周遊券などの利用客が、格安料金でゆったり過ごせるとしてグリーン車利用することも多かったバブル景気による首都圏地価高騰影響で、東京へ通勤圏静岡県静岡市まで広がった1980年代後半以降は、新幹線最終逃した新幹線通勤者の最終列車としての役割も果たすようになったまた、沿線住民帰るときこの列車でうっかり寝過ごしてしまい、名古屋岐阜に連れて行かれてしまうことも少なくなかったこのため列車での寝過ごしを「寝過ごし日本記録」と紹介されたこともある。 深夜静岡駅では1990年代初頭まで駅弁立ち売りがあり、長めにとられていた停車時間利用して駅弁購入することができた。末期小ぶり幕の内弁当1種類のみの販売であったが、それでも売れ残りではなくこの列車のために調製されたものであった小説では西村京太郎大垣行345M列車殺意』とつかこうへい青春かけおち編』に大垣夜行登場している。なお車両1982年昭和57年)から翌年にかけて153 / 155 / 163サロのみ)/ 165系クハのみ)から165系交代している。 1986年昭和61年11月1日国鉄最後ダイヤ改正実施され荷物列車がほぼ全廃となったことから、上り列車に関して快速運転区間拡大あわせてスピードアップが行われた。これにより、名古屋駅発車時刻新幹線東京駅最終「ひかり」発車した1時間後となり、列車需要拡大つながった。この時までは大垣駅から静岡駅まで各駅に停車したのち、清水駅深夜1時10分頃)に停車していたが、これ以降豊橋駅まで各駅停車となった。この時、荷物電車クモニ83形連結無くなり編成普通車9両・グリーン車2両の11両に減車された。 改正前 (340M) 大垣21:01名古屋21:42/21:44東京4:39(ひかり170号)名古屋21:41東京23:46 改正後 (340M) 大垣22:15名古屋22:57/22:59東京4:42(ひかり288号)名古屋22:02東京23:52 JR発足後1990年平成2年8月旧盆6日間だけは定期列車米原駅まで延長運転された。1993年平成5年)から、東京駅東北新幹線ホーム増設工事のため東海道本線ホームが狭い仮ホームとなっており、混雑期行列危険な状態となってしまうため、混雑期下り列車東京駅 - 品川駅間運休し品川駅始発運転された。この措置は、1996年平成8年3月の「ムーンライトながら」化直前まで続けられた。 「ムーンライトながら」化直前停車駅以下の通りであった停車駅下り東京駅 - この間列車線の各駅に停車 - 小田原駅 - 熱海駅 - 三島駅 - 沼津駅 - 富士駅 - 静岡駅 - 浜松駅 - この間三河塩津駅尾頭橋駅を除く各駅に停車 - 大垣駅 停車駅上り大垣駅 - この間尾頭橋駅三河塩津駅を除く各駅に停車 - 豊橋駅 - 浜松駅 - 静岡駅 - 富士駅 - 沼津駅 - 熱海駅 - 小田原駅 - 大船駅 - 横浜駅 - 川崎駅 - 品川駅 - 新橋駅 - 東京駅 下り列車混雑期品川駅始発運行された。

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