大垣夜行時代
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前述の夜行普通列車は、東海道本線の普通列車で唯一の客車列車となっていたことから、合理化のため1968年(昭和43年)10月のダイヤ改正(「ヨンサントオ」)において廃止されることが決定していた。しかし、そのことが新聞などで発表されると廃止反対の要望書が国鉄本社などに多く寄せられ、当時の国鉄総裁・石田礼助が「この夜行列車を存続させるべきである」と判断したこと、またこの列車には荷物・郵便輸送の役割もあった事情などから、それまで運行されていた臨時急行列車『ながら3号』(東京駅23:46発、大垣駅7:16着)を普通列車化する形で、急行形電車を使用して存続することになった。ちなみに当時はまだ東名高速道路も部分的にしか開通しておらず、東京と名古屋・京阪神を結ぶ高速バスもまだなく、格安航空会社も存在しなかったこともあって、寝台車の無い普通列車で格安移動する旅客もまだまだ多かった。 電車化に際し、運転区間が大垣駅までに短縮され、一般に大垣夜行と呼ばれることとなった。実際には下り列車のみ、大垣から分岐する東海道線支線の美濃赤坂駅行だったが、1969年(昭和44年)10月1日、大垣止まりに変更となった。 大垣駅発着となったのは、ここに車両基地の大垣電車区(現在の大垣車両区)があり、運用上好都合なためであった。なお、上りは前述の豊橋駅 - 東京駅間の列車を大垣発に延長した形になった。 下り (143M) 東京23:30 → 豊橋4:40/4:46 → 名古屋6:22/6:29 → 大垣6:59/7:05(美濃赤坂着7:27) 上り (144M) 大垣20:32 → 名古屋21:16/21:18 → 豊橋22:37/22:38 → 東京4:35 特に下り列車は「大垣行き(夜行)電車」なので「垣電」と呼ぶ利用者も少なからずいた。電車化後しばらくの間は客車時代の列車番号を踏襲した143Mと144Mを名乗ったが、後に東京駅 - 名古屋駅間運行の普通列車と同じ体系 (3xxM) に変更されている。下り列車の場合でみると、白紙ダイヤ改正ごとに347M → 345M → 375Mと変化している。下り列車の各駅停車区間は設定当初は掛川駅からであったが、1972年(昭和47年)には午前4時過ぎの浜松駅からとなり、1996年(平成8年)の「ムーンライトながら」化まで続いた。なお「各駅停車」と記載しているが、名古屋近郊の新設駅は通過する場合があった。時期により通過駅は変動し、設定当初は下りのみ三河大塚駅・三ケ根駅、「ムーンライトながら」化直前は上下とも三河塩津駅・尾頭橋駅を通過した。また、設定当初の下り列車は金谷駅に停車していた(上り列車は当時、各駅停車区間に含まれた)。1974年(昭和49年)には定期停車は取り止められるが、その後も臨時停車は1980年代後半まで続いた。登山シーズンには大井川鉄道(現・大井川鐵道)も下り列車に接続する臨時列車を深夜3時台より運行した程であった。 この列車の人気は高く、特に1982年(昭和57年)に青春18きっぷ(当初は青春18のびのびきっぷ)の販売が開始されると、その利用可能期間となる夏・冬・春の繁忙期にはラッシュ時の通勤列車並み、もしくはそれ以上となった。特に通勤・退勤時間帯と重なる下りの東京駅 - 小田原駅間と岡崎駅 - 名古屋駅間での、青春18きっぷ有効期間中の混雑は甚だしかった。青春18きっぷの販売が開始される前はグリーン車から席が埋まっていたが、青春18きっぷの販売が開始されてからは普通車から席が埋まるようになり、特に下りの始発駅である東京駅では数時間前から行列が出来ていた。青春18きっぷが発売されない時期は、週末などを中心に東京ミニ周遊券や京阪神ミニ周遊券などの利用客が、格安料金でゆったり過ごせるとしてグリーン車を利用することも多かった。バブル景気による首都圏の地価高騰の影響で、東京への通勤圏が静岡県静岡市まで広がった1980年代後半以降は、新幹線の最終を逃した新幹線通勤者の最終列車としての役割も果たすようになった。また、沿線住民が帰るときこの列車でうっかり寝過ごしてしまい、名古屋や岐阜に連れて行かれてしまうことも少なくなかった。このため本列車での寝過ごしを「寝過ごしの日本記録」と紹介されたこともある。 深夜の静岡駅では1990年代初頭まで駅弁の立ち売りがあり、長めにとられていた停車時間を利用して駅弁を購入することができた。末期は小ぶりの幕の内弁当1種類のみの販売であったが、それでも売れ残りではなくこの列車のために調製されたものであった。小説では西村京太郎『大垣行345M列車の殺意』とつかこうへい『青春かけおち編』に大垣夜行が登場している。なお車両は1982年(昭和57年)から翌年にかけて153 / 155 / 163(サロのみ)/ 165系(クハのみ)から165系に交代している。 1986年(昭和61年)11月1日に国鉄最後のダイヤ改正が実施され、荷物列車がほぼ全廃となったことから、上り列車に関しては快速運転区間の拡大とあわせてスピードアップが行われた。これにより、名古屋駅の発車時刻が新幹線の東京駅行最終「ひかり」の発車した約1時間後となり、列車の需要拡大につながった。この時までは大垣駅から静岡駅まで各駅に停車したのち、清水駅(深夜1時10分頃)に停車していたが、これ以降は豊橋駅まで各駅停車となった。この時、荷物電車クモニ83形の連結が無くなり、編成が普通車9両・グリーン車2両の11両に減車された。 改正前 (340M) 大垣21:01 → 名古屋21:42/21:44 → 東京4:39(ひかり170号)名古屋21:41 → 東京23:46 改正後 (340M) 大垣22:15 → 名古屋22:57/22:59 → 東京4:42(ひかり288号)名古屋22:02 → 東京23:52 JR発足後、1990年(平成2年)8月の旧盆の6日間だけは定期の列車が米原駅まで延長運転された。1993年(平成5年)から、東京駅は東北新幹線ホーム増設工事のため東海道本線ホームが狭い仮ホームとなっており、混雑期に行列が危険な状態となってしまうため、混雑期の下り列車は東京駅 - 品川駅間を運休し、品川駅始発で運転された。この措置は、1996年(平成8年)3月の「ムーンライトながら」化直前まで続けられた。 「ムーンライトながら」化直前の停車駅は以下の通りであった。 停車駅(下り) 東京駅 - この間列車線の各駅に停車 - 小田原駅 - 熱海駅 - 三島駅 - 沼津駅 - 富士駅 - 静岡駅 - 浜松駅 - この間、三河塩津駅・尾頭橋駅を除く各駅に停車 - 大垣駅 停車駅(上り) 大垣駅 - この間、尾頭橋駅・三河塩津駅を除く各駅に停車 - 豊橋駅 - 浜松駅 - 静岡駅 - 富士駅 - 沼津駅 - 熱海駅 - 小田原駅 - 大船駅 - 横浜駅 - 川崎駅 - 品川駅 - 新橋駅 - 東京駅 下り列車は混雑期、品川駅始発で運行された。
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